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雑誌『女人藝術』をめぐって―村山籌子と小林多喜二を中心に(1) [村山籌子]

1.板垣鷹穂あての小林多喜二の手紙から

 「こんな処から、始めてお便りを差上げます。二、三日前、此処の独房で、あなたの「美術史の根本問題」を、大変面白くよみ、急に、何かを書きたくなったのです。」で始まるこの一節は、1930(昭和5)年12月、豊多摩刑務所から小林多喜二が美術評論家の板垣鷹穂に送った書簡の冒頭部分である。この時分の板垣の著書には住所の記載(上落合559番地)があったので、そこにあてて手紙を書くことができたのだろうと思う。そして、「何時かの『女人芸術』に、ぼくの作品について、非常に細々と批評をされた板垣直子さんというのは、あなたの奥さんなのですか。ぼくは、たしか誰かゝら、そのようにきゝました。岩波から出ている『レオナルド』の訳者と同じ方だと思いますが。あの時そう思ったのですが、今のところぼくの最後の作品になっている『工場細胞』が出てからの批評であったら、もう少し板垣直子さんも喜んで筆をとられたろうにと考えました。」と綴っている。『女人藝術』、それは私にとって、ずっと気になっていた雑誌であった。発行人である長谷川時雨が夫の三上於菟吉とともに、友人である直木三十五を大阪に訪ねた時、その場所は雑誌『苦楽』『女性』を発行していたプラトン社の編集部であったこと、そして時雨に「いつまでも年齢を名前にして、一年ごとにペンネームを変えてゆくのは辞めなさい」と忠告されたので、直木の名前は三十五に固定されたという逸話を何かの本で読んだからであった。三上と直木は同じ早稲田中退で、一緒に出版社を経営したこともある間柄である。三上といえば『雪之丞変化』で有名な当時の流行作家。三上からの金銭的な支援によって時雨が創刊したのが『女人藝術』であり、1928(昭和3)年7月1日の創刊である。この年の5月には出版社であるプラトン社が倒産、雑誌『女性』が廃刊となったばかりの時期にあたる。時雨は若手の女性編集者を起用し、牛込区左内町31番地に女人藝術社をおき発行所とした。発行者は長谷川時雨、編集者は素川絹子、印刷者は生田花世という布陣。創刊号では山川菊榮、神近市子、望月百合子、岡田八千代、生田花世、岡本かの子、柳原燁子、今井邦子、深尾須磨子、ささきふさ、平林たい子、眞杉静枝、長谷川時雨など世代としても傾向としても広範囲にわたる女流文学者を結集したきわめてユニークな雑誌である。同じ年の十月號では林芙美子の『放浪記』の連載が始まっている。この時期の女性の意識の変化を考えるとタイムリーな企画であったといえるだろう。

女人芸術初期座談会.jpg
『女人藝術』初期の座談会

芸術的現代の諸相表紙.jpg
板垣鷹穂著『藝術的現代の諸相』の表紙

山六郎装丁『首都』三上於菟吉著プラトン社昭和3年4月5日発行表紙.jpg
プラトン社から刊行された三上於菟吉の『首都』

『苦楽』大正14年12月号 山名文夫による表紙「薔薇」.jpg
プラトン社発行の雑誌『苦楽』

『女性』大正14年1月号 山六郎による表紙.jpg
雑誌『女性』
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コメント 4

やまがたん

ご訪問いつもありがとうございます
旅行につき訪問&応援のみとなります☆
by やまがたん (2009-07-12 07:08) 

漢

錚々たる女性達……元祖、女は太陽!
by 漢 (2009-07-12 10:27) 

ナカムラ

やまがたん様:コメントありがとうございます。
by ナカムラ (2009-07-13 14:33) 

ナカムラ

漢さま:コメントありがとう存じます。当初『女人藝術』は平塚雷鳥の『青鞜』のメンバーを母体にしていましたので、まさに・・・です。生田花世なんか、かなり活躍したようです。若手の発掘は花世の仕事だったようです。
by ナカムラ (2009-07-13 14:36) 

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