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平林たい子と柳瀬正夢、落合での二人(6) [柳瀬正夢]

 目黒のビルに帰った平林は高見沢の帰りをまった。そして手切金、罰金のことを話した。柳瀬にとりなしてほしいと高見沢は言うが平林は勘弁しない。結局、高見沢の結論は「金をはらうかわり、君の生活を安定させる善良な男性を紹介してあげるよ。」だった。そして高見沢が紹介したのが岡田龍夫であったのだ。高見沢は「君、岡田はアナなんだぜ。僕みたいなボルと違って、その点でも君と合うと思うよ」と告げる。高見沢に連れられて平林は目白駅に降り立つ。そこから歩いて岡田の落合の家に一緒に行こうというのだった。

 そのころの落合は、みまわす限りの野菜畑で。三井家の墓所のある高台が林のように見えた。西武電車も武蔵野電車もまだ通っておらず、西武電車の予定地が買収されて、赤いペンキ塗の杭の標識が野菜畑の間に立っていた。  すがすがしい郊外のながめを楽しんで三十分も歩いたころ、大小の石碑が背をならべた墓が見えて、その前に物置小屋のような小屋がぽつんと一軒建っていた。見晴しはひろびろとして、ところどころに竹藪でかこまれた農家が見えるばかりである。

岡田が住む落合の家は『ガ・ギムガム・プルル・ギムゲム』仲間のカンディンスキイと皆が呼んでいる詩人の一人が建てたけれど、冬が寒いのですまなかったという家だという。あたり一面は大根畑であったという。落合大根はこの時代に有名であった。記述から想像すると西落合の自性院の近くあたりだろうか。平林は善良であった岡田には魅力を感じなかった。そして、ついには岡田の家から逃げだす。その後の平林たい子であるが、岡田龍夫や壷井繁治のようなアナキスト詩人とともにいった千葉の海岸で岡田と別れている。この後、林芙美子と同居したこともある平林は仕事も住居も転々とする。しかし作家として覚醒してゆくことになる。その舞台は柳瀬が同人であった雑誌『文藝戦線』であったのだ。私が偶然手に入れた『アサヒグラフ』1932(昭和7)年1月6日号には漫画家・柳瀬正夢の家族写真が掲載されていた。笑顔で馬になった父・正夢の上に二人の娘が乗っており、正夢は満面の笑顔。そのわきに幸せそうな妻の梅子の姿がある。この写真を見るとこの数か月のちに治安維持法違反によって検挙され、過酷な拷問を受けることになろうとは想像のしようもない。ある種の恐怖も感じさせる写真であった。

 柳瀬は若い時期に穴明共三と名乗ったようにアナキズムとコミュニズムの整理もついていなかった。だが、次第に概念整理もされ思想的な対立も論争もあった。平林は長くアナキストであった。ある時期から明確にコミュニストとなった柳瀬とは思想的には袂を分かつことになる。しかし面白いことに二人はともに落合地域に深く関係を持つことになった。平林は1926(大正15)年に西落合に暮らした。1933(昭和8)年、柳瀬の妻の梅子の病状は悪化した。柳瀬は留置されたままだったので家族は上落合の板垣鷹穂の家のほぼ隣にあたる家に越す。小林勇が世話をしたようである。入院先で梅子は死去する。柳瀬は自らは望まずに落合に戻ったことになる。まだ幼い子供たちを抱えて、妻の死はこたえただろうなと思う。柳瀬が次に居を構えたアトリエは西落合であった。画家、松下春雄が白血病で急逝したアトリエを借りたのであった。不思議な縁が二人と落合にはあったのかもしれない。

平林たい子と柳瀬正夢、落合での二人(5) [柳瀬正夢]

 当時の資料にばかりあたっていた私は平林たい子の戦後の自伝的な小説である「沙漠の花」を読み落としていた。そして最近になって「沙漠の花」を読んだのだった。当然のごとく柳瀬正夢は登場するが、本名のままの登場である。一方、平林たい子が直接に男女関係として関わる相手はやはり配慮からか名前を変えて書かれている。そうではない柳瀬や村山、萩原恭次郎などは本名で登場する。以下はその記述。
 
ある日、旧知の漫画家柳瀬正夢氏を訪ねた。わずか十七歳の奥さんを持っている四十歳近い柳瀬氏の家庭は、こぢんまりして、ユーモラスで、門灯のほやにとかげがはっている絵が墨で書きこんであった。

柳瀬のことを40歳近いと書いているが、思い違いである。平林が柳瀬を訪ねた真相、それはどうやら、やっとの思いで書いた十五枚くらいの小説を雑誌『文藝戦線』の編集、中西伊之助に送っており、その口添えを頼みにいったということであったようだ。最初の夫ときっぱり別れているのなら紹介したい相手がいると柳瀬にいわれ紹介されたのが高見沢路直であった。平林の深川のバラックに柳瀬からの速達が届き、その夕方に柳瀬の自宅を訪問したのだった。

たずねた柳瀬氏の家には二人来客があった。一人は、少しゆきの短い背広を着てはにかんでいる二十七八の青年だった。しばらく話をきいているうちに、築地小劇場の丸山定夫だということがわかった。もう一人は、髪の毛を襟頸まで長くしてルパシカを着ていた。江戸っ子らしい言葉使いで、しきりにおもしろそうに絵の話をしていた。

二人の話を聞いている平林に奥から柳瀬夫人が手招きし、「その人よ、どう? 変っているでしょう。でも、あなたとは合いそうじゃありませんか。」と告げた。平林も同意し、柳瀬が二人を正式に引き合わせた。そして柳瀬家をでて高円寺駅から列車にのり高見沢の自宅のある目黒に向った。高見沢は平林に意識的構成主義やサウンド・オーケストラの哲学について話をし、平林は何がなんだかわからない暗号だと聞いていたそうだ。

 「それはおもしろい暮らしぶりですわね。」  「どう、僕と結婚する気ある?」  「ええ、ありますわ。」  私はいたって気軽に、しかし積極的に答えていた。この人にすがるというよりも、この人のまわりに立ちこめている反逆的な理論と価値の倒錯の中で生きるほか、私のようなものには甦る道はないのだ。

さっそく翌日に二人して柳瀬の家にゆく。結婚の報告にいったのであった。柳瀬は早すぎる結論に驚く。「そんなに早く結論を出しちゃだめだよ。僕はしばらく交際するのかと思っていたのだよ。」と忠告する。高見沢は「善は急げですからね。」と柳瀬の憤懣を聞き流した。柳瀬はかなり反対だったようであったが、高見沢は勝手にことを進めてしまったようだ。平林は深川から目黒に引っ越す。そして毎日のように高見沢に連れ出され、友人たちに紹介されていった。その中には雑誌「ゲ・ギムガム・プルル・ギムゲム」に属する詩人もいた。やがて高見沢の生活になじめない平林は不平をもらすようなった。それは高見沢にしても同様であり、次第に二人の間に溝ができ、それは拡大した。高見沢は自分をコムニズムに通じているといい、アナキズムをきらいだという。平林は柳瀬のところにいって相談をした。柳瀬は思慮のある年長者としての責任をいたく感じ、今一度高見沢と話そうという。しかし高見沢は応じない。柳瀬は男が結婚の解消を申し出るときには男はそれ相当の償いをしなければならないものだ、と平林に話す。そうか慰謝料がとれるのかと平林は納得、さっそく柳瀬の忠告を実行することにした。もちろん金がとれる望みがないことは承知の上でのこと。当時の自分の気持ちを「それを面白がった」と平林は書く。

私は心もかるくさえずるように、柳瀬氏に約束した。一生に一度は手切金をとる女になってみるのもよかろうぐらいの気持だった。柳瀬氏は、笑いごとではないという顔つきで、その申出にたいするこまかい心づかいを注意した。が、半分は聞いていなかった。

平林たい子と柳瀬正夢、落合での二人(4) [柳瀬正夢]

門司に難を逃れた柳瀬は東京に戻った際に下宿先の娘である青木梅子と結婚する。梅子の実家は村山知義の三角のアトリエや大山郁夫の自宅にほど近い小滝橋そばの車夫の家。そこの2階に柳瀬は下宿していたのだった。この実家から1924(大正13)年1月、柳瀬夫妻は杉並の馬橋に借家して引っ越した。ここに平林は訪問したのだろうか。そうならば新妻の梅子には平林はどう映ったのだろうか、興味はつきない。結婚後の柳瀬の活動はマヴォで村山や他のメンバーと展覧会をゲリラ的に行っていた時期とは異なっている。それはタブローを描かなくなったことであり、それにかわり新聞や雑誌、ポスターや本の装丁といった商業的な仕事が多くなっている点である。この時期、村山知義は建築や舞台美術の仕事が増えている。二人はその道を分けたようにもみえるが、それは違っており、お互いに影響を与え、受けつつも一定の距離を保っていたようである。そもそもマヴォは1923(大正12)年の宣言において「講演会、劇、音楽会、雑誌の発行、その他をも試みる。ポスター、ショオウヰンドー、書籍の創釘、舞台装置、各種の装飾、建築設計等をも引き受ける」としており、ロシア構成主義、アヴァンギャルドと同様にタブローにこだわらない姿勢を対外的に打ち出した。結婚後の柳瀬がポスターやマンガや雑誌や書籍の装丁に仕事の比重を高めてゆく姿を見て、マヴォの初期の展覧会にみるような前衛的なタブローやオブジェ、過激なパフォーマンスから離れていったようにも見えたのだが、宣言から判断するとマヴォの範疇に適応した活動に集中しているようである。読売新聞を退社した柳瀬は「無産者新聞」の専属画家となって活動する。無産者新聞でのポスターのデザインは素晴らしい「絵画」でもある。一方の村山は震災後の東京の復興にチャンスを見出す。バラック装飾社によって仮設建築のデザインや装飾を行う。仮設的な劇場である築地小劇場の舞台美術を行うなど建築的な仕事に集中する。これも宣言にあった範疇である。
柳瀬が同人としてよって立った雑誌『種蒔く人』は震災によって中断、結局は廃刊となった。この後継誌となった『文藝戦線』の同人と柳瀬はなり、その表紙も描いている。この『文藝戦線』に平林たい子は小説を発表している。これも何かの縁なのだろうか。平林は村山の家にリャク(略奪)に行ったが、辻潤と小島きよは酒をたかりに行き、柳瀬正夢は村山をオルグに行った。村山をコミュニストにするべく議論をふっかけていた柳瀬。しかし、簡単に村山は応じなかった。この時期の村山は純粋に芸術にしか関心がなかった。村山は自伝において、三角のアトリエのイスに柳瀬が座って議論を交わしたことを懐かしく思い出し、記述している。

平林たい子と柳瀬正夢、落合での二人(3) [柳瀬正夢]

 関東大震災での警察への連行があり、また長谷川如是閑の助言も受け、柳瀬は一時避難を目的に門司に向かう。戒厳令下の東京は社会主義者にとってとても危険であった。現にアナキストの大杉栄と伊藤野枝は震災後のどさくさに紛れて特高によって虐殺されたのだった。そして危険は社会運動家の全員にふりかかりつつあり、落合の住人では、たとえば作家の小山勝清も危なかった。小山と同郷の熊本の作家、田代倫は郷里に難を逃れていた。そこで若き日の竹中英太郎と出会うのだった。橋浦泰雄も危険だったのではと思ったが、自叙伝である『五塵録』は有島武郎の死までしか記述がなくわからない。実際にはどうだったのだろうか。橋浦と柳瀬がともに装丁やイラストやデザインの仕事をしていた出版社は足助素一の叢文閣であった。足助素一は北海道大学出身で、有島武郎の本を出版するために叢文閣を作った。札幌では橋浦泰雄の弟である橋浦季雄が足助素一とも有島武郎とも親しくしており、そのつながりから橋浦泰雄も二人と親しくなる。橋浦の郷里である鳥取に有島は講演のために訪問するが、こうしたつながりからだ。その直後に有島は心中事件をおこす。足助素一も橋浦泰雄も対応に奔走することになった。有島の死はこの時期の社会主義的な文化人に多大な影響を及ぼしたものと思われる。例えば柳瀬正夢や佐々木孝丸が同人であった雑誌『種蒔く人』への援助なども惜しまなかった。ある種のリベラルなパトロンでもあったといえるだろう。その支えを失ったことは大きい。
 橋浦泰雄の同郷の後輩格、涌島義博も叢文閣で働くようになり、ここで本づくりを覚えた。妻で作家である田中古代子と涌島が東京で住んだ場所は、少なくとも1926(大正15)年には上落合であった。板垣鷹穂と直子の家のすぐ近くである。叢文閣での勤務の後、涌島は南宋書院を始める。南宋書院は多くのコミュニズム関係の書籍を出版するが、林芙美子の最初の詩集『蒼馬を見たり』も出版している。橋浦は震災後、地震見舞いに行った叢文閣で同じく見舞いにきた大杉と出会い、親しく会話を交わしたのだった。橋浦は意気投合したと書いている。しかしこれが二人にとって最初で最後の会話になってしまう。大杉栄と伊藤野枝の遺体は橋浦泰雄が1920(大正9)年頃に下宿していた上高田の宝仙寺近くにある落合火葬場に運ばれた。万事を足助素一が取仕切り、それに橋浦も協力したようだ。6月の有島の死、9月の大杉の死、二つの不幸が連続したのだった。叢文閣から出版された長谷川如是閑の多くの著作や山田清三郎の『プロレタリア文学史』(昭和3年刊行)などの装丁は柳瀬正夢の手によっている。そもそも柳瀬が単行本を最初に装丁したのは叢文閣から出版されたアンリ・バルビュスの『クラルテ』であった。1923(大正12)年のことである。柳瀬は大正12年に長谷川如是閑の『お猿の番人になるまで』『奇妙な精神病者の話』の装丁を担当したが、いずれも我等社からの出版であった。一方、震災以後に関しては叢文閣での仕事が目立つ。1924(大正13)年に刊行された長谷川如是閑の『真実はかく語る』『老人形師と彼れの妻』『象やの粂さん』の3冊はすべて柳瀬の装丁である。雑誌の装丁としては1920(大正9)年創刊の『我等』、1921(大正10)年創刊の第二次『種蒔く人』がある。震災後、柳瀬は門司に難を逃れていた影響だろうか、読売新聞社を退社している。勤務していた読売新聞では柳瀬は風刺マンガなどを描いていた。

平林たい子と柳瀬正夢、落合での二人(2) [柳瀬正夢]

村山の『演劇的自叙伝2』には戦後に村山が平林に「うちにリャクに来たのを覚えていますか?」と聞いたことが書かれている。平林は「もちろん覚えています」と答えたそうだ。だから、たとえ出会っていなくとも平林と柳瀬はきわめて近いところにいたことになる。柳瀬の下宿は東中野といっても落合との境の小滝橋にほど近く、村山の家までは至近であった。また、関東大震災後に柳瀬が検挙されて留置された淀橋警察署・戸塚分署には平林夫妻も留置されていた。『花子の結婚其の他』によればこの留置場で柳瀬と知りあったのだという。その後に平林夫妻は満州にわたった。満州での悲惨な生活と夫の投獄、夫を満州に残して一人帰国したたい子は神戸から東京に戻った。平林は結婚して生活を安定させたいという希望をかなえるために柳瀬のところに相談にゆく。そして神戸でYに手紙を書いた経緯を話したろうが、もちろん柳瀬にとっては生活の安定のために結婚相手を探してほしいといわれても知ったことではなかったろう。平林がしつこく頼んだのだろうか、柳瀬はマヴォのメンバーである高見沢路直(のちの田河水泡)を紹介する。お見合いということなのだろうか。高見沢と平林はつきあうが、高見沢が婚約(本当に婚約したのだろうか)を破棄する。それはアナキストの平林とマヴォイストの高見沢との性格の不一致(思想の不一致?)によるものだったようだ。婚約を破棄されて困った平林が柳瀬に相談にゆくと、高見沢からお金をとってはどうかとの助言を受けた。しかし高見沢にお金があるわけではない。おそらく柳瀬も知っていただろうに、一時の逃げ口上だったのだろうか。案にたがわず高見沢にお金はない。お金はないが、かわりに他の男を紹介するということになり、やはりマヴォのメンバーである岡田龍夫を紹介したのだった。今になって考えてみるとすごい。柳瀬に高見沢を紹介され、高見沢に岡田を紹介され、それ以前には村山の家にリャクに行ったのだから、「さすがは平林の姐御!」と掛け声をかけたくなる迫力である。それは今から見たときの話なのだろうけれど、それでも凄い。岡田龍夫といえば萩原恭次郎の詩集『死刑宣告』(1925年10月刊行)を飾ったリノリウム版画の素晴らしさを私は思いだす。『死刑宣告』は岡田の作品だけが掲載されているわけではなく、村山も柳瀬もブブノワも作品をよせているが、岡田のリノリウム版画の量と質が突出していて見事である。岡田はもっと知られていい画家ではないだろうか。高見沢に紹介された岡田と平林は落合地域で同居を始めたのだが、一体どのあたりに住まいしたのだろうか。私には特定することができなかった。この時期、村山知義も尾形亀之助も萩原恭次郎も落合地域に住んでいた。岡田の好みからいえば萩原恭次郎のそばに住みそうだが、こればかりはわからなかった。

平林たい子と柳瀬正夢、落合での二人(1) [柳瀬正夢]

 作家、平林たい子には1933(昭和8)年に啓松堂から出版された作品集『花子の結婚其の他』がある。啓松堂から出版されたこのシリーズは雑誌『火の鳥』によった女性作家たちの作品集として刊行されており、評論集をだした板垣直子を皮切りに林芙美子、城夏子、尾崎翠などの著作が出版された。『花子の結婚其の他』の冒頭には満州から帰ってきた若き日の平林たい子自身を描いた私小説的な作品がおかれている。平林が満州に行ったのは1924(大正13)年のことだった。そこに登場するのは「画家のY氏」、つまり柳瀬正夢のことである。小説によれば、神戸の知人の家にやっかいになっているときに住所録をあけたら偶然に活動家のYの住所があり、見もしらぬYに平林は結婚してほしい旨の手紙を送ったというのだから驚かされる。見も知らぬ女性から突然にこんな手紙を受け取ったらいたずらと思うか、気味悪く感じるかのどちらかだろう。ただし、この時すでにYは記載の住所から転居していた。平林は返事が返ってこなかったのが返事だろうと思ったという。返事があるかもしれないと考えたのだから、当時としては可能性のある行動だったのだろうか。その前なのか後なのか、平林は上落合の村山知義のところにリャク(略奪のこと)に行ったりもしたようである。当時のアナキストは刃物を携えて脅しに行ったり、場合によってはピストルを持参して居宅を襲ったようだから物騒である。後にコミュニストになる村山知義もドイツからの帰国直後は芸術への関心ばかりであり、アナキストの襲撃を極端に恐れていたようである。村山や柳瀬が中心になった芸術家集団マヴォにはアナキストも参加しているが、村山とは和解のための儀式のようなこともされたようだ。岡田龍夫などはその典型であったろう。またマヴォはその機関誌として『MAVO』を発行したが、そこには萩原恭次郎が編集として5号から加わったことによって多くの詩人が参加した。当然アナキズム詩人もそのなかにはいた。

若き柳瀬正夢と落合という場(4) [柳瀬正夢]

 関東大震災とそれに伴う戒厳令の発令はさまざまな動きにつながった。震災を契機にして制定されたのは「治安維持法」であった。一方で普通選挙も約束しながらの制定であった。普通選挙といっても当時は女性に参政権はなかった。ひどい話である。普通選挙法に基づく選挙が行われたのは1928(昭和3)年2月20日。露骨な選挙妨害を行ったにもかかわらず過半数をとることができなかった与党は危機感を覚え、労農党への弾圧を行うことになった。小林多喜二が大きな怒りをもって描いた小説「1928.3.15」に代表されるような暴力的な弾圧と一斉検挙が行われた。さすがにノンポリの村山も大正末期から意識が変化していった。柳瀬のオルグもあったと思うが、一番大きかったと思うのは妻となった岡内籌子の存在だったと考える。「ボルシェビキでなければ嫌」といわれたはずである。政府に思想的に立ち向かわないなんて「いくじなし」、くらいは言いそうである。1924(大正13)年に村山知義と籌子は結婚した。自由学園の明日館での挙式である。
一方の柳瀬は検挙も含め関東大震災によって運命を大きく変えられる。長谷川如是閑の助言もあって、いったん柳瀬は海路で門司へ避難したのだ。よって立った雑誌『種蒔く人』は結局廃刊となる。MAVOはバラック建築という形でかえって活躍の場を広げたが、柳瀬は検挙と疎開によってその活動からは結果として距離を置くことになった。この期間に柳瀬は下宿の娘・青木梅子と結婚する。そして杉並の馬橋に新居を定める。一方、村山夫妻は上落合の三角のアトリエの家に住むことになった。翌1925(大正14)年には村山はプロレタリア芸術家聯盟の一員となる。アヴァンギャルド芸術の旗手はMAVO的な運動を離れてプロレタリア芸術運動に傾斜してゆく。当時のボルシェビキズムも時代の先端、つまり前衛であった。

若き柳瀬正夢と落合という場(3) [柳瀬正夢]

戸山ケ原は次第にさびしくなってゆく。人家が少なくなっていくからだ。柳瀬はこのときの様子を「狂犬に噛まれる」(『戦旗』1928年11月号)という文章にまとめている。以下少し抜粋して紹介する。

落合の通りから小滝橋を渡って高田馬場への道を。大山さんの家の前の通りをだらだら下り切って突き当った通りへ来て、空地の中に「休め」の姿勢をとった。
(略)
伝令がきた、私達は又前のような隊伍で進んだ。坂を上って、大山さんの家の前をよぎると戸山ヶ原にでた。
(略)
僕達の一隊は原っぱをうねり乍ら、伝令を待っては進んだ。林を抜け、丘を下り、線路を渡って射的場附近から人家の方へ右に廻った。此処で今迄の兵士が四人抜けた。生垣を幾曲りかすると「戒厳司令部中隊本部」だった。
(略)
取調べ調書をとられ本部送りになる所を特高が引き取っていった。近くの淀橋署戸塚分署の留置場に放り込んだ。

この回想で柳瀬は「死を覚悟した」と書いている。おそらく軍隊は殺気立ってきていたのだろう。だが、ここで運命が変わる。特別高等警察が柳瀬を引き取ったのだった。特高に連れられて柳瀬が向かったのは、現在の高田馬場駅のやや東南方向、諏訪町郵便局のあたりにあった淀橋警察署戸塚分署であった。柳瀬は命拾いをしたと書いている。

皮肉なことに、ブタ函に入って僕は始めてホッとしたのだ。ファッショオの犬死から免れたことに。

戸塚分署の牢屋には柳瀬のほかに落合の住人である平林たい子夫妻も連行されてきていた。大山郁夫であるが千葉から帰ったところを憲兵隊に連行される。ただし、震災から時間が経過しており、この時には新聞社も同行する余裕があった。さすがに大山は大物であり、新聞記者に同行されるとなると手荒な真似もできずに下落合の憲兵隊本部に連行したようであった。大山も千葉にいたのが幸いであったといえるだろう。この一連の事件を当時の村山は無関係に暮らしていた。村山をはじめとするMAVOのメンバーは今和次郎を中心としたバラック装飾社とともにバラック建築を設計、施工してゆく。マヴォ理髪店、バー・オララ、バー・キリンなどをキャンバスにして新興芸術家たちは町に飛び出していった。建築物を仮設するという形で。

若き柳瀬正夢と落合という場(2) [柳瀬正夢]

ちなみに高群の日記にでてくる小山は作家・小山勝清のことで、大正13年の小島きよの日記にも「小山さんのところ」として登場している。その後、落合地域は昭和初期になって文学者とくにプロレタリア文学者がかたまって住む地域になるが、大正11年あたりで見渡すと、まだそれほど多くの文学者がいたわけではなかった。むしろ画家が目立っていた。佐伯祐三、中村彜、鶴田吾郎、曾宮一念などが住んでいた。若き柳瀬にとってこれらの画家たちの存在はどう映ったのだろうか。この引っ越しの前年となる1921(大正10)年に柳瀬は雑誌『種蒔く人』の同人となり、未来派美術協会の会員となる。読売新聞の社員ではあるが、反戦主義から出発し、ついにはボルシェビキズムに傾斜してゆく左翼的な思想と、絵画であってもアヴァンギャルドな精神を体現する新たな芸術活動を同時に受容したのであった。その直後の極めて大切な時期に落合に転入してきたといえるだろう。ここに結婚したばかりの仙台出身の画家・尾形亀之助が越して来た。そして決定的な事としてドイツに留学していた村山知義が未来派美術協会の若手二人の間に不時着したのであった。これは大きな事件であった。1923(大正12)年1月に村山は帰国するが、村山は「意識的構成主義」という新たな芸術概念を持参して帰ってきた。未来派美術協会の活動に満足できなかった若手、柳瀬と尾形はある意味、村山を落合に住んで待っていたということになろう。もちろんそれは比喩的な意味にすぎないが。5月、村山の自宅である小滝橋のほど近い「三角のアトリエの家」において開催された「村山知義 意識的構成主義的小品展覧会」には柳瀬も尾形もかけつける。柳瀬が下宿した場所からは歩いて5分とはかからない近さだった。そして大浦周蔵や門脇晋郎も加わってMAVOが結成された。この時代の村山は思想的にはノンポリティカルであったように思う。意識的構成主義もアヴァンギャルドな要素を受容してきたものであった。柳瀬は村山へのオルグを始めた。雑誌『我等』で親交が深かった長谷川如是閑と大山郁夫。そして『種蒔く人』で知りあった佐々木孝丸や山田清三郎。リベラルな彼らの考え方に若き柳瀬は共鳴したのであろう。特にこの年の夏、柳瀬は大山郁夫に接近していた。大山の家は柳瀬の下宿から戸山ヶ原にむかって歩けば5分くらいの距離だ。震災の前、大山夫妻と柳瀬は千葉の海に避暑に赴いていた。柳瀬は震災発生2日前に大山夫妻よりも先に東京に戻っていた。大山のことが心配になった柳瀬は留守宅に番をしにゆく。ここに9月6日、憲兵隊が来たのだった。しかし検挙しようにも大山は千葉から帰宅してはいなかった。関東大震災の混乱に乗じて朝鮮の人々が暴動を起こしているとか、主義者が暴徒となって何かの破壊活動をしているとの噂が流れ、不当な監禁や暴力が行われた。権力は外国人や主義者たちをこの機に乗じて殺してしまおうとしたのだった。暴動の鎮静を名目に戒厳令が敷かれ軍隊が派遣され、どうやら下落合にも憲兵隊本部がおかれたようだ。この憲兵隊の一隊が大山の自宅には来ていた。しかし、大山は不在だ。この時は大山がターゲットだったので柳瀬は無事に済んだ。しかし、柳瀬本人にとっても危険はあった。それはその夜に早くも現実化する。夜11時すぎ、下宿に憲兵隊がおしかけ、柳瀬自身が連行されることになったのだ。柳瀬の下宿からは少し離れてはいるが、堺利彦門下で、いくつかの労働争議にもかかわっていた小山勝清も危険だったようだが、こちらも当日は偶然に出かけていて無事だった。そして自宅に帰ってからはあえて町内の見回りなどに積極的に関わり、見張る側に身をおくことで危険を軽減したのだという。小山は中井の三の坂上あたりに住んでいた。連行された柳瀬はすでに徒歩で連行されている者たちとともに歩かされたが、一隊は小滝橋からは戸山ケ原の方へと向かった。この道はなんと大山郁夫の家の前を通る。大山夫妻はまだ帰宅していなかった。

若き柳瀬正夢と落合という場(1) [柳瀬正夢]

 1900年1月12日、松山・大街道で生まれた柳瀬正夢が門司と東京をいったりきたりしながらも画家としての生活を、東京を基盤にして行ってゆこうと意識したのはいつのことだったのだろうか。一握りの画家以外はタブローを売ってくらしてゆける環境ではなかったのも事実である。この時代、地方出身の才能ある若者が東京と地方とを行き来しながら自らの道を求める動きがみられる。文学の世界でいえば1896年生まれの宮沢賢治や尾崎翠はそうした存在であった。尾崎翠は結局、故郷の鳥取を離れて東京の上落合に定住を始めることになった。1920(大正9)年、柳瀬は東京に定住を始め、読売新聞に入社した。1920年といえば普門暁が未来派美術協会を設立した年であり、翌21年に柳瀬は未来派美術協会に加わっている。ところが普門暁は1922年に除名され、木下秀一郎が後を継いだ。木下秀一郎の姪タケは尾形亀之助の妻。この縁からか、尾形も未来派美術協会の会員となる。1923(大正12)年に尾形は上落合に居を構えるが偶然にも村山知義の叔母の借家であった。柳瀬が落合地域に入ってくるのは1922(大正11)年のことで、多くの文献が「東中野」と表記している。たしかに東中野には違いないのであるが、実際の場所は小滝橋のすぐ近くの車屋の2階であった。現在の早稲田通りのすぐ南側になる。村山知義の三角のアトリエの家までは5分とかからない距離であった。ここに居を柳瀬が定めたのは、長谷川如是閑や大山郁夫といった雑誌『我等』の中心人物たちの近くに越して来たいということであったのかもしれない

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  雑誌『我等』大正10年2月号

柳瀬正夢挿絵 我等大正10年2月.jpeg
  柳瀬正夢挿絵(『我等』大正10年2月号)

 ただ、この時期には東京は郊外への都市部拡大の動きが活発になっており、その背景にはマスプロダクト化、工業化の波があった。農業を離れた労働者が都市部に流入、大正年間を通じて大きな人口流入の動きとなった。当然のごとく流入者への住居の提供は都市の必要条件であり、都市郊外の開発は急ピッチで進められた。また、西武新宿線のような鉄道の整備も進められた。落合地域も例外ではなかった。目白文化村に代表されるように郊外開発が進められた。画家・金山平三は現在の西武新宿線の中井駅の北側にアトリエ村を作り、芸術家たちが集う街の開発を企図した。これを金山はスペインの芸術村アヴィラの名前にちなんで「アビラ村」と呼んだが、「芸術村」とも呼ばれたようで、大正13年に下落合に住んだ高群逸枝の『火の国の女の日記』には以下の記述がある。

  二人の再出発の家は下落合の高台の一郭、椎名町から目白方面にゆく街道筋にある長屋群の一つだった。この家も同郷の小山さんがみつけてくれたもので小山さんの近所だった。近くには森や畑が多く、私がよく鶏卵を買いにいった百姓家もあった。この一帯はそのころようやく新開地めいてきだしたところで、「芸術村」という俗称もあった。

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