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ハイレッドセンター展 [アート]

渋谷区立松濤美術館で2月11日から3月23日まで開催される「ハイレッドセンター:『直接行動』の軌跡」展の内覧会に参加した。高松次郎、赤瀬川源平、中西夏之の3人を中心にしたグループながら60年代に行動した多くの反芸術的な美術家やその後フルクサスのアーティストとなる美術家、音楽家などを巻き込んだ活動が印象的であった。当時の写真、貴重な資料、オリジナルによって構成された展覧会は思った以上に内容が濃く、見てゆくのに時間がかかった。第4の公式メンバーである和泉達さんの作品は初めて見たが、興味深い作品だった。同時代では体験できなかった、あるいは目撃できなかった我々にとって当時の写真と背景資料は貴重だ。とても面白かった。帝国ホテルでハイレッドセンターが行った「シェルター計画」ではオノ・ヨーコやナム・ジュン・パイクの参加資料が展示されている。当時のメンバーの多くが展覧会を行った内科画廊に一度は伺いたかったと思うが、現代美術に興味をもったころには逆にオーナーの宮田さんは釧路病院に勤務されていた。本当に良い展覧会なので多くの方に見ていただきたいと思います。
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コンテンポラリーダンス「隣人」 [アート]

東神田のLower Akihabaraで村松桂さんの写真展「danza margine」をみる。空間と作品が響きあう。とてもいい感じだ。村松さんの作品は好きだけれど、今回の展示は場所の力とあいまって力がある。できたばかりだという写真集を買う。あるいて千代田3331へ。木版画のアートレジデンス運営する門田さんと話し込む。

恵比寿に移動してSiteにゆく。太田ゆかりさんの「隣人」をみるため。音楽はTAMURANMUSICさん。田村さんの案内で見ることにした。ダンスと音楽のコラボレーション企画で、隣人をテーマにしたコンテポラリーダンスが展開される。二人のダンサーによって展開されるダンスによるドラマをみていたら、あれ「これって狂言じゃん」と思った。太郎冠者と次郎冠者が争ったりじゃれあったりする。そして狂言回しが音楽の田村さん。なかなかおもしろかった。

自宅に戻りアーティスト・ブック作成する。

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霧のポジ、太陽のネガ<一原有徳さんを偲んで>(6) [アート]

6.カムイミンタラに旅立たれた一原さん

 常に元気あふれる一原さんだったが、さすがに年齢を考えると、先々助手なしで大きな作品の制作は苦しいかもしれないとSさんは心配していた。その頃、Sさんからは「中村が小樽に残って一原さんの助手をすると安心だけどなあ」と言われていた。しかし私は東京での就職を決め札幌を離れることになった。82年の3月のことである。その頃、妻はNDA画廊に勤めていた。偶然にもNDA画廊の入っていた道特会館が老朽化で危険になり、建てなおすことになって画廊も中断するという時期であった。従い、我々夫婦は同じ時期に札幌を離れてしまい、一原さんの活動のサポートはできなくなった。東京ではINAXギャラリーでの展覧会で久しぶりに出会い、我々の長男にも会ってもらった。モノタイプ版画は規模を拡大し、巨大なインスタレーションになっていた。89年、北川フラムさんの企画により現代企画室から『一原有徳作品集』が刊行され、いままでの一原さんの作品シリーズが完全とはいえないがまとまった。素晴らしいことだった。東京で開催された、この刊行記念展では多くの方が来られていて一原さんとゆっくり話すことができなかった。88年には土方定一さんと縁の深い神奈川県立近代美術館(別館)で、回顧展「 現代版画の鬼才 一原有徳の世界」が開催された。この展覧会にも小学生になったばかりの息子を連れて鎌倉に伺った。会場には大きなモノタイプのインスタレーション作品が展示されていた。まるで地球以外の惑星の風景のような印象だった。そんな過去にない規模の作品を制作しながら一原さんはご自分の死について意識されていたようだ。というのも、今回の一原さんの葬儀に際して息子の正明さんから小さな作品の入った封筒を渡されたのだが(私は伺えず郵送でいただいた)、そこには一原さん自身が「ぼくの葬式に来てくれた人に、これあげてね」と88年当時制作していた版画を菓子箱にいれていた様子が記述されていた。また、そこには俳句も三句入っていたそうである。

  閻魔に問う壱千壱の馬鈴薯(いも)の名を
  座禅草點り水芭蕉に黒子くる
  針(セ)桐(ン)大樹カムイミンタラの終着駅

「カムイミンタラ」とはアイヌ語で「神々の遊ぶ庭」のこと。一原さんは神々の庭の終着駅に向けて銀河鉄道の列車に乗られたのだろうか。私のいただいた作品はトタン板を腐食し、そこに3つの輪を描いた青紫色の版画である。エディションの記入がないが、モノタイプではなく製版したものだ。
 不義理をかさねてしまった私が最後に一原さんにお会いしたのは、映画の中の一原さんであった。92年、映画「アンモナイトのささやきを聞いた」を渋谷のユーロスペースに見にいった。スクリーンの中には一原さんがいた。驚いた。出演されているとは知らなかったのだ。
一原さん、ごめんなさい。本当にいろいろなものをいただき、表現を行う上で必要な「魂」にかかわるさまざまなことを教えていただきながら何のお手伝いもできませんでした。でも、一原さんは笑って許してくれるだろう。そして、言うだろう。「中村さん、次は何をされるの?それは面白いの?」その疑問符に私は答えられるだろうか。いや、これからの人生の中でしっかりと答えなければならないと思っている。一原さんが100歳になってもやり残したことがあると言い残したように。私もそうでありたい。ありがとう一原有徳さん。あなたの笑顔を、声を、魂を決して忘れません。

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霧のポジ、太陽のネガ<一原有徳さんを偲んで>(5) [アート]

5.一原さんの人柄

 79年末の個展の時以来、何度もNDA画廊でご一緒させていただき、様々な話をきかせていただいたし、ときに夕食をご一緒した。話してみて、わかったことは意外にラジカルな魂をお持ちだということだった。最初の頃には登山の話が多かったが、次第に文学、美術、音楽といった芸術に関する話題が二人の会話の大半を占めていった。郷ひろみよりもラジカルさにおいてジュリーの方が好きだとの発言には明治生まれの気骨を感じた。音楽では現代音楽の一柳さんの話がよく出た。評論家の土方定一さんの話も数多くうかがったが、たった一つだけ土方さんの批判をされたのを不思議に今も覚えている。ある時、土方さんが一原さんに良い画家になるためには寡作であるべきだと言われたそうだ。しかし、一原さんは全く正反対の考えで、ピカソに代表されるように本当にすごい作家は多作であるとの意見だった。私も一原さんに賛成で、それは今でも変わらぬ考えである。舞踏についても一原さんから教えていただいた。ビショップ山田さんが率いた北方舞踏派は一原さんが住む小樽を拠点に活動していた。一原さんは北方舞踏派の活動を明らかに応援していた。北方舞踏派も鈴蘭党も一原さんから知らされなければ見ることもなかったのかもしれない。その後、種村季弘さんのすすめでドイツから帰国したばかりの石井満隆さんやベッティナ・クライハメスさん、若き日の田中泯さんなどを見ることができたのも、そもそも一原さんから「舞踏」の存在を教えてもらったからだったと思う。ある時、一原さんが私に「中村さんはアルマンって知ってる?」と聞いてきた。アルマンのことはその時知らなかった。西武美術館で大きな展覧会が開催される5年ほど前のことで作品を見たことすらなかった。私が知らないと答えると、その作品について解説してくれ、画集で作品を見てみるといいと思うといわれた。後にアルマンの作品をみて気付いたのだが、私の資質に合っている作品だった。一原さんは私が作品を見せていないにも関わらず、話から私の資質を見抜いて指摘をしたのだった。アルマンはラバースタンプ・アートの先駆者であり、アキュミュレーション(集積)を方法論とする作家である。一原さんもアルマン的な資質があり、ちょっとアルマンのことを気にされていたが、どこか違うなとも感じられたようで、ある時期からはアルマンのことを気にしなくなった。むしろ、類似で気にされていたのはデ・クーニングやアルツングだった。ヌーボー・レアリスムよりも、やはりアンフォルメルの作家たちが気になるのだなと思った。一原さんは土方定一さんの推薦により東京画廊での個展を行い、同時期のアイ・オーさんとともにアンフォルメルの作家として注目を浴びたというのがデビューであった。幸運なデビューであるといえるだろうが、年齢はすでに49歳であった。私が出会ったのは79年だから68歳という年齢になられていた。「山スキーならまだ若い人に負けませんよ」と言われるほどに元気であったが、普通であれば岩登りや厳しい沢登りなどは控える年齢ではないかと思うだが、気にせず日高山脈の超難関な沢に入られていた。私でも躊躇するような難ルートだった。この精神は版画にも俳句にも小説にも、そして日常生活にも反映されていた。そして、常に溢れんばかりの好奇心をもっていた。NDA画廊の経営者である長谷川洋行さんがオホーツク・ワークショップを実施、北見紋別において各2週間、合計1か月の合宿ワークショップを、前半を石井満隆さん、後半を島州一さんが担当して行ったことがあった。その様子をぜひ見たいということで、私たちの車に同乗して現地に向かった。年齢を考えるともっと広くて快適な大型車か列車の方が楽だったと思うが、全く気にされなかった。現地でも我々と行動をともにされ、まったく違和感がなかった。帰りも同様に車に5人も乗車している中ずっとうれしそうにされていた。そんな飾らないところが一原さんらしかった。一度だけ一原さんのご自宅を訪ねたことがあった。お宅は小樽築港が眼下にひろがる高台の上にあった。板の間に大きな版画プレス機があり、その横で話をさせていただいた。周囲にはさまざまな一原作品が無造作に転がっていて、どれもが興味深かった。あまりに沢山の作品を作りすぎて、忘れている作品も多いということだった。整理をすると全く忘れていた作品がでてきて、自分で新鮮だったこともあるといわれ、満面の笑顔だった。帰りには、まるで俳句にあったような「9999」と刻印されたミニアチュール版画をいただいた。本当にサービス精神が豊かな方だった。
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霧のポジ、太陽のネガ<一原有徳さんを偲んで>(4) [アート]

4.硬質な抒情

 一原さんはモノタイプや金属板に大胆に腐食液をかけたりドリルで直接削ったり、ポンチで刻印したり、ハンマーでたたいたりして製版した版画のほかにもユニークなオブジェを制作していた。鉛の板に物体を凸版にみたてて直接プレスしたり、アルミの板に時計の文字盤をプレスした、版画と呼んでも構わないような、小さなオブジェをたくさん制作された個展があった。活字ではないのだが、鉛を多用されていたせいもあって、私には活版印刷の活字を拾うような楽しみがあった。特に、具体的な形象を感じさせない鉛に大量のネジクギをプレスした作品がすきだった。この作品はのちにステンレス板を焼く作品にも通じていったように思う。イヴ・クラインの火の絵画ではないが、紙を炎で焼く版画を試され、たとえば熱したスパナで焦がした美しい炎の絵画を生み出されたが、この炎と鏡面に磨かれたステンレスとを組み合わせた半立体作品を完成されていった。結婚祝いにと2枚の焼いたステンレス板作品をいただいたのを思い出す。

 一原さんは優秀な俳人でもあった。前述した推理作家・渡辺啓助さんの雑誌『鴉』に俳句を寄せてもいた。『鴉』では本名の一原有徳を使ったが、俳号として九糸、のちには九糸郎を使われた。

  蛇輪禍 特別自然保護地域

私が今も暗記している一句である。全て漢字で構成されているのにリズムは壊されていない。そして上句と下句とのまるでネガとポジのようなイメージの対比がある。一原俳句は彼の版画と基本的な構成は異なっていないようだ。むしろ俳句が先に制作されているので、モノタイプや版画作品がヴィジュアルな俳句なのだといえるのかもしれない。そこには記号も数字も使われ、イメージをより複雑で深みのあるものにしている。

  樹氷きらきら水道の鍵手にねばる
  夕べ小鳥よ雪となる雲を見ている
  あぢさい夕べキャッチボールの音起こる
  ダイヤモンドダスト、ブロッコリーを噛んでいる
  セラミックの姥捨山に妻籠る
  新世紀の空気を掴む小さな手
  わが下水からからに落葉ばかりぞ
  ぱぴぷぺぽ山を焼く音恋の唄
  蝸牛に敷かれて青き地球見る
  9999 999ヒラケゴマ
  水筒の口夕霧にほうと泣く

俳句は言葉だから意味がどうしても明確に出てしまう。それでも一原さんはせいいっぱい硬質な抒情を志向しているように感じる。できる限り形容詞を排して名詞を体言にとめて、異なるイメージを出合わせることで新たなイメージを生じさせる。それが俳句でも版画でも一原さんの方法であったように思う。しかしどんなに硬質を志向しても、どこかにポエジーが内包されていた。それが一原さんの資質なんだろう。そして、できるかぎり削ったぎりぎりの要素の対比によって新たなイメージを構成する。それはシュルレアリストたちが言った「手術台の上でミシンと蝙蝠傘が出合ったように美しい」のポエジーをより鉱物質にした印象がある。一原さんの作品はいわゆるシュルレアリスムではないけれど、その精神的なものを内包していたように感じるのだ。

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霧のポジ、太陽のネガ<一原有徳さんを偲んで>(3) [アート]

3.初めての出会い

 そもそも一原さんのことは登山家として名前のみを知っていた。一原さんは北海道における登山家のパイオニアの一人であり、短いが印象的な心に残る山岳エッセイを書いておられたせいもあって名前を存じ上げていたのだと思う。初めて読んだのは74年に出版されていた『小さな頂』であった。北海道の山は本州の中央山脈に比べて標高も低く、登ってみるとひっそりと静かで、小さな目立たない山頂が多い。それでいて心に残るのだ。大雪はちょっと山容が異なるが、それ以外の山は基本的に小さな頂という印象が私にもある。一原さんはそのイメージをまったくストレートにタイトルにされていて、私はそのタイトルにも魅かれて書棚に収めたのだと思う。そんな憧れの登山家が、私を打ちのめすようなイメージあふれる絵画作品の作者であったとは驚きだった。私はこの人に会いたいと願った。この私の願いをかなえてくれたのもSさんであった。Sさんから再びNDA画廊に来るように連絡が入ったのは79年の初夏のことだった。
 その日、NDA画廊では島州一さんの個展のオープニングパーティーが開かれていた。そこに一原さんが必ず来るので参加するように言われたのだ。憧れの方は私が想像していたよりもずっと小柄だった。その時に何の話を一体したのだろうか、山の話だったとは思うのだが、細かな内容までは記憶にない。ただ、島さんがギャラリーの狭いスペースを6人くらいのアーティストで10分くらいかけてとまらずにゆっくりと歩くというパフォーマンスを行い、一原さんも参加されていた情景を鮮明に記憶している。一原さんはほかのアーティストと違い、少し歩幅を大きくしすぎ、同じ場所でくるりとまわったりしていた。時計をみずに10分をゆっくり動き続けることは意外に難しそうだと思った。私はこの会場で島さんの作品集に彼のシルクスクリーン作品がついたものを購入した。私が初めて購入した美術作品である。お金を貯めて次の機会には一原さんのモノタイプ作品を購入した。60年制作の年号記載のある「GYN」という作品だった。一原さんの作品タイトルについては不思議が多い。きっと本当はあまりタイトルに関心はなかったのだろう。記号の組み合わせで具体的に何かをイメージできないように配慮しているように思えた。「GYN」「TAN」「LEY」「RON」「SON」「ZON」といったようにアルファベット3文字を組み合わせてタイトルにした例も多い。作品それ自体の自立を志向した一原さんには余計な意味や言語は不要だったのだろうなと思う。それはエディションでもそうだった。モノタイプはいい。1点しかできないから「1/1」と表記すれば確実だから。でも、製版した場合、エディションの管理が必要になる。でも、そんなことに関心をもてない一原さんはエディションがわからなくなることもあったようだった。そんな場合には、すべて「AP」=アーティスト・プルーフ(作家用の作品でエディション外の作品を表す)「EP」「EA」(意味はAPと同様)として処理されていたようなので、実際にはエディションの指定部数まで刷られた作品は版画集を例外として、皆無ではないかと心配になるほどである。作品をもって語らしめようとする一原さんのこうした姿勢を私は今も愛している。

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霧のポジ、太陽のネガ<一原有徳さんを偲んで>(2) [アート]

2.一原有徳作品との出会い

 私は78年から82年の4年間、大学生として札幌に暮した。当時の私は中学生のときから始めた登山と高校生のころから書き始めた短歌に夢中であり、大学のサークルは山登り系サークル、短歌では大学の教師であり、俳人として活躍されていた近藤潤一教授の紹介で、北海学園の教授で歌論家の菱川善夫さんと出会って指導を受けていた。そして、菱川さんが主催していた現代短歌・北の会の若手歌人たちとともに同人誌『陰画誌』に短歌を発表していた。同人ではなかったが、菱川さんが講師を務めていたカルチャー教室の生徒にSさん、Kさんがいて、私たち同人の集まりに参加していた。そのSさんが友人を介して歌人の福島泰樹さんを札幌に招待、3日間ほどずっと行動をともにしたことがあった。79年のはじめのことだった。その時、Sさんが我々一行を案内した場所のひとつがNDA画廊であった。NDA画廊は時計台の北側にあった道特会館という石造の古い建物の1階にあった真紅のドアをもつギャラリーだった。実は伺う直前まで近くのレストランで朝食兼昼食を食べていたのだが、そんな時間にも係らず酒好きな福島さんはワインを注文し、周りにも飲ませたために皆顔を赤くしてギャラリーに行くはめになっていた。ギャラリー室内に入ると暖かく、その中心にはストーブが燃えていた。壁面には山本容子さんの銅版画がかかっていた。「アスパラガス・ガイ」「アスパラバス・パラダイス」「トゥ・ザ・パーク」など初期の代表作が並んでいた。だがSさんが見せようとした絵は山本容子さんのものではなかった。一つはリトアニア出身でポーランド在住の画家スタシス・エイドリゲビチウスの蔵書票、そしてもう一つは北海道の版画家・一原有徳さんのモノタイプ版画であった。ギャラリーの女性が版画ケースから出して見せてくれた一原さんのモノタイプは私には衝撃的であった。そこには見たこともない金属的なイメージの連続があり、これを抽象と呼んでしまっていいのか、私にはわからなかった。モノタイプは版画とはいっても製版していないので1枚しか刷れない。つまりは版をつかって反転はさせるが、複数性は排除してしまっている表現形態なのであった。そのイメージの鮮烈さに目を奪われた。まるで、何かの結晶の顕微鏡写真を見ているようだった。私は魅了された。こうした絵画表現を見たことがなかったこともあって、まさに目から鱗が落ちるような体験であった。
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霧のポジ、太陽のネガ<一原有徳さんを偲んで>(1) [アート]

1.仲人のような存在だった一原さん

 「その時」を知ったのは妻の携帯へのメールからだった。そして妻の実家から電話も入った。新聞で確認するとそれは真実だった。訃報が掲載されていた。100歳という年齢、死因が老衰と記載されており、天寿を全うされたのだなとある意味安堵した。我々は2010年、北海道に関係の深い二人の貴重な才能を失うことになった。ひとりは舞踏家の大野一雄さん(6月1日)であり、もう一人は版画家であり、俳人でもある一原有徳さん(10月1日)である。最近の一原さんとはお会いする機会もなく、従ってどういう生活をされていたのかも知らなかった。東京高輪のギャラリー・オキュルスの主人・渡辺東さんとお会いすると「一原さんはどうされているのかなあ・・」と話し合うことがあるくらいであった。渡辺東さんは推理作家・渡辺啓助さんの四女で、ご自身がイラストレーターでもある。啓助さんと一原さんは仲が良かったそうだ。私の記憶の中にある一原さんは小柄な体つきなのに日高山脈の極めて難しい沢を軽々と踏破してしまうような身軽な柔軟さをもち、おそらくは絶妙なバランス感覚もお持ちだったのだろう。そして、何よりやさしい笑顔が素晴らしかった。私と妻は共に一原さんが書いた小説「乙部岳」(70年の太宰賞の候補作)のファンでもあって、義経伝説を残すという山里よりも、山の中腹にあったという芥子畑をもつ隠れ里に思いを馳せ、機会があれば沢をつめてこの頂に登りたいものだと話し合っていた。81年だったろうか、本気でやってみようかと思い、手稲山の裏に流れる発寒川を訓練場所にして沢登りを妻に教えた。結局、その夏は天候が不順で乙部岳に登ることは諦めたが、そうした時間を過ごすことで妻と結婚することにつながったのだった。私たち夫婦にとっては一原さんは仲人のような存在である。
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