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公楽キネマの銀幕のこと(4) [村山籌子]

4.翠とチャップリン

 チャップリンが登場したところで、再び尾崎翠の「映畫漫想」に戻りたい。『女人藝術』の1930(昭和5)年4月号に「影への隠遁」という短文があり、チャップリンに言及している。

そして・・・・チャアリイ!知ってるかい。雪を浴びた君の肩に、また雨が降ってるんだ。草臥れきったフィルムが降らせる雨の効果は・・・・しかし君は知ってるに違ひない。

「映畫漫想(二)」にはチャップリンへのオマージュが綴られている。

――我輩は帽子です――さう、チャアリイは帽子だ。彼から秘密を打明けられるまでもなく、チャアリイの帽子は彼の全身と言っていい。また、彼の創る全世界は帽子だと言っていい。
ながめたところ、ただひとつの、誰の頭に載っかってても差支なささうな山高にすぎない。(おまけに金鑛地の吹雪と公楽キネマの雨に打たれ、地は毛羽だち、つばは草臥れてゐるのだ)だから、ちょっとダグラス・マツクリインの頭に載っけてみる。

この一節は「杖と帽子への愛」と題された文章で、全編がチャップリンへの讃となっている。雑誌『詩神』6巻1号(1930年1月号)に「私のすきな男性!」というコーナーがあり、中本たか子、戸田豊子、素川絹子といった『女人藝術』の作家たちとともに尾崎翠も文章をよせている。中本たか子は「そのうち報告する」、戸田豊子は「私の好きな男性?」、素川絹子は「男と女の見榮坊」と三人ともに現実的な男性像を語ろうとしているが、一人尾崎翠だけは「影の男性への追慕」と題して銀幕の男性俳優への想いのみを熱く語っており、異質である。しかも、男優を通して「男」を見ているのではなく、男優を通してやはり映画を語っているのである。

影とは一つの映寫幕を通してのもの。現身以外のものの精です。・・・・互ひにぶつかり合ふ個個の影を並べる所以です。

チャアリイ=吹雪に吹かれる幅狭の肩。パンを啖ふ髭 待ちぼけの心臓。跛の藁沓。ポテトオ・フオオク・ポテトオ。杖。スボン。帽子。――全身。全付属品。君が創る全世界。君が撒く全悲哀。

こうして読んで来たら、『女人藝術』に掲載された尾崎翠の小説に思いが至った。それは「木犀」という小説。「木犀」は1929(昭和4)年3月号に掲載されている。その冒頭部分を引用するが、上落合での尾崎の下宿や公楽キネマなどをモチーフにしており、とても興味深い。

木曜。今日はチャアリイが衆楽キネマの幕から消えてしまう日である。私は彼に別れを告げに出掛けなければならない。夕方の六時になって火葬場の煙突が秋の大空に煙を吐き初めると、私は部屋にじっと坐ってゐられなくなった。私は三日前の夜からチャアリイを戀してゐるのだ。

家の近くまで來てふと思ひついて這入った場末の哀しい衆楽キネマで、月おくれのゴオルドラッシュをやってゐた。擦り切れた古い寫眞の中でぶるぶると踊るチャアリイのポテトオが胸に迷ってゐた涙を素直にほぐしてくれた。そしてN氏の影の代りにチャアリイが私の心臓を捕へた。

村山籌子の文章にも、そして尾崎翠の文章にも、お互いに関する記述はなかった。だが、だからといって二人がお互いを意識していなかったということにはならないだろうと思う。二人はほぼ同時期に雑誌『女人藝術』に書いていた。そして、ほぼ同時期に上落合にあった公楽キネマで映画を見ていたのである。映画館が作る闇の中で、二人がすれ違うことは果たしてなかったろうか。銀幕の影に二人が同時に息をのむことはなかったろうか、などとつい想像を逞しくしてしまう。わが家からもさして遠くない場所にあった公楽キネマは、1945(昭和20)年5月25日の山の手大空襲によって焼失してしまったのであった。今はない公楽キネマの銀幕を前に村山籌子と尾崎翠が匂いについて語り合う姿を私は想像するのである。戦争に雪崩れてゆく時代にあって、二人はともにあえて沈黙を守ろうとしたなと思いながら。

「女人藝術」2-10号 昭和4年10月號 村山かず子写真.jpg
『女人藝術』2巻10号掲載の村山籌子の写真

村山かず子「私を罵った夫に輿ふる詩」「女人藝術」2-3号 昭和4年3月号.jpg
『女人藝術』2巻3号掲載の村山籌子の「私を罵った夫に輿ふる詩」

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村山知義装丁による『村山籌子作品集1』
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公楽キネマの銀幕のこと(3) [村山籌子]

3.公楽キネマと尾崎翠

 むしろ、ここで気になったのは「公楽キネマ」のこと。公楽キネマという映画館の名前は他でも読んだ覚えがある。それは、尾崎翠の「映畫漫想」だなと思いあたり、雑誌『女人藝術』に6回連載されたうちの第一回を確認すると以下の記述があった。

木陰―影―あぶく―儚-仄―微―なるたけそんなのが好い、しかめ面に遠いのが。そこで、いくらかポケットの便利な時は武蔵野館の三階でなければ猫の額のやうに可愛い駒込館で眼を射ないほどに疲れた畫面を。でなければ、落合の火葬場から遠くない公楽キネマで、草臥れきったゴオルド・ラッシュに他では味はへない風情もあるのだ。

この原稿は『女人藝術』の1930(昭和5)年4月号に掲載されたもので、前記の村山籌子の手紙とほど近い時期のことである。そして、8月号の「映畫漫想(五)」でも再び公楽キネマは登場する。それは衣笠貞之助監督の「駕籠」についての文章のところである。

そこで墓標が消え、公楽キネマの天井に侘しい灯のついた椅子の上で、ひとりの観客は侘しい観念論者にされ、澄み徹った静かな心で考へる「心が所有してる幸運は、そのまま心の外に存在する幸運だ」。

村山籌子から知義にあてた手紙に書かれ、尾崎翠の文章に登場する映画館である公楽キネマを昭和4年に発行された地図「東京府豊多摩郡落合町全図」で確認したら、地図上に「公楽キネマ」の記載があった。上落合521番地にである。この場所は、小滝橋から早稲田通りを中野駅方向に坂を登った通りに面した敷地にあたり、JR東中野駅から西武新宿線の下落合駅に向かう上落合中通りが早稲田通り(当時は昭和通りと呼んだと思うが)と交わるあたりである。村山知義の三角の家からなら歩いて2分くらいの距離だろう。尾崎翠の住んでいた上落合842番地(三輪)からでも徒歩で15分くらいではないだろうか。

③落合地図.jpg

 興味をもって調べてみると、公楽キネマは松竹系で、1925(大正14)年1月にオープンしており、定員は450名。一方、洋画は籌子も翠も新宿にあった洋画中心の封切館である武蔵野館で見ており、オープンは1920(大正9)年6月、定員は1,150名であった。当然、入場料も武蔵野館は高い。

ムサシノ.jpg
新宿武蔵野館の開館6周年記念雑誌『MUSASHINO』

斬人斬馬劇はテクニックだけはうまくなったやうですが結局つまらない映畫でした。山内さんがプロキノにはいることは反對があって、どうなるか分りません。

村山籌子が公楽キネマで見た映画「斬人斬馬剣」であるが、1929(昭和2)年、松竹キネマ京都撮影所の無声映画。伊藤大輔の原作、脚色、監督であり、月形龍之介の主演である。私は未見の作品であるが、長らく見ることができなかったこの映画は、最近になって発見され、デジタル補正されて国立近代美術館のフィルムセンターに収蔵されているようだ。そして、上映もされたようだ。「斬人斬馬剣」は無声映画なので、上映の際には活弁がついたのだろう。公楽キネマにもスクリーンの左側に弁士の入るボックスが、そして前方下側にはオーケストラの席があったという。阪東妻三郎や嵐勘寿郎のチャンバラの場面では、オーケストラの音楽が普段よりも高く流れたという。7月19日付の籌子の手紙には無声映画とトーキー映画についての彼女の思いが書かれている。

活動寫眞は、トーキーは人氣がなくなってしまひ、又そろそろサイレントが復活して來ました。やはり私などもサイレント・ピクチュアを見る方が面白いのです。チャップリンの意見は全然うけ入れられないとしても、トーキーは散文的でいい氣持がしません。ムサシノでも、このごろ、サイレント二本立を時々やってゐます。 松竹座は殆どサイレントかサウンドで、オール・トーキーはメッタにしません。このごろ又々、アーノルド・フンク物が方々に見えてゐます。

11月28日付の手紙には再び公楽キネマが登場している。

チャップリンと言へば、長らくかかってゐた「シティー・ライト」を完成したさうです。これは例によって新春、ロイド、キートンと一緒に封切りになる由です。ロイドのものは「フリート・ファースト」といふ海のもので、バーバラ・ケントが助演してゐます。キートンのものはまだ分りません。此頃はあまり面白いものは出てゐません。公楽キネマへ今日から「アジアの嵐」がかかってゐます。是非もう一度見ようと思ってゐます。

ムサシノ中ページ.jpg
『MUSASHINO』の前扉

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公楽キネマの銀幕のこと(2) [村山籌子]

2.籌子からの手紙

 村山は、「赤旗」を秘密で読むグループに入っていたこと、また共産党に毎月資金を提供していたので、事実を探知されたら大変なことになると緊張したようだ。ナップ(全日本無産者芸術連盟)メンバーであった村山は、この時すでに共産党のシンパとして組織されていた。また、この時は雑誌『戦旗』に書いた「妥協はない!」というタイトル小説について取り調べられた。しかし本質的な嫌疑は共産党への資金提供であり、7月に起訴され、17日には豊多摩刑務所に送られた。中野駅の近くにあった刑務所である。この時、村山知義ばかりではなく、中野重治や立野信之、小林多喜二などが刑務所に入っている。そして、彼らの妻を中心に救援隊が作られ、支援を始めたのであった。支援の第一は、獄中の彼らに手紙を書くことだった。手紙によって通信、連絡を行なったのである。そして、そうであったからこそ、書簡集として手紙が残ったのが、村山知義の妻の籌子の場合だった。

「ありし日の妻の手紙」櫻井書店.jpg
『ありし日の妻の手紙』村山知義編 櫻井書店

籌子は1946(昭和21)年8月4日、鎌倉長谷の家で息を引き取った。そして1947(昭和22)年10月、櫻井書店から『ありし日の妻の手紙』が村山知義の編集によって出版される。以下は知義による序文の一部である。

そして今またこの書簡集が世に送られようとしている。そのことを彼女が知ったら、きっと大反對したろう。この手紙たちも私がひそかに取っておいたものだ。引越しの時に彼女はそれを見た。 「まあいやだ、そんなものを取ってあるの?」 「うん、まあいいさ」 と私は答えて、手早くしまいこんだ。

知義が取っておいたのは、三度獄中にあったときの籌子から送られた手紙だけであった。しかし、その内の最も量の多かった1932(昭和7)年~33(昭和8)年の分は空襲で全部焼けてしまったので、残ったのは1930(昭和5)年の分を中心とした51通だけであった。1930年5月20日、知義は治安維持法違反の容疑で逮捕され、戸塚署、水上署、杉並署といった警察署を盥まわしにされた後、豊多摩刑務所に収監され、その年の12月22日に出所した。『ありし日の妻の手紙』に収められた最初の手紙は5月22日付となっているから、逮捕された直後に書かれたものということになる。

お晝から社に行って、仕事をして、夜、山内公さん夫妻と公楽キネマへ斬人斬馬ケンを見に行く豫定。といふと仲々悠々とした生活をしてゐるやうで華やかさうですが。オハリ。

「社」とは戦旗社のことで、籌子は雑誌「少年戦旗」の編集の仕事をしていた。

「戦旗」1930年4月号.jpg
雑誌『戦旗』1930年4月号 表紙は柳瀬正夢
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公楽キネマの銀幕のこと(1) [村山籌子]

1.百年に一度の恐慌

 昨年来の世界経済危機が今年もその影を落としている。この「経済危機」なる呼び方、英語では「Economic crisis」。この訳文はついこの間までは「経済恐慌」だったはず。今も英語では同じ呼び方のままだ。同じ呼び方ということは、その本質は同じということに他ならず、現在はまさに「恐慌」のただ中にあるといっていいだろう。2008年からの世界恐慌、それはアメリカのサブプライムローン問題に端を発した。百年に一度あるかないかの規模の大不況だという。やはり百年前の「大恐慌」もアメリカ発であり、1929(昭和4)年10月に始まった大恐慌の波は、日本にも波及して、全ての工業分野にまで影響は及び、空前の失業者を生み出したのであった。それは農村にまで拡大し、農産物の価格の大暴落を引き起こし、農家を極端な窮乏に追い込んだのであった。様々な意味で時代の転換点となった1930(昭和5)年は、こうした大不況による生活苦をはねかえそうとして引きおこされた数多くのストライキによって幕をあけることになった。当然、小作争議も各所でおきた。そこから2年遡る1928(昭和3)年3月、普通選挙の施行に時を同じくして、労働組合や労農党に政府は弾圧を加え、ストライキへの破壊行動をも行なったのであった。そんな状況の中、1930(昭和5)年のメーデーが近づく。「メーデーに参加する者は武装せよ」という命令がどこからともなく出ていると、ささやかれていた。2月26日の共産党の全国的な大検挙があったことも引金になったようだ。村山知義の『演劇的自叙伝3 1926~30』(東邦出版社)には、村山の初めての検挙が以下のように記述されている。

五月二十一日の朝、私は家にやって来た顔見知りの特高係り三人の来訪を受け、「ちょっと署まで来て貰いたい」といわれた。三人が来て、署までといわれたので、これは少し長くなるかな、と思った。あとから様子を見に来てくれ、と妻にいい置いて、出て行った。

村山が連行されたのは、高田馬場駅にほど近い戸塚署だった。

私は大震災で引っ張られた時以来、家からこの署へ連れて行かれる時はいつも、小滝橋を渡り、高田馬場への大通りを行かず、右の小路から戸山ヶ原の雑木林の間を抜けて、小さな無人踏切を越えて、裏の方から署へ連行されるのであった。

村山知義「演劇的自叙伝3」東邦出版社昭和49年.jpg
村山知義『演劇的自叙伝3』の前扉
村山知義の三角の家写真「アサヒグラフ」1924年3月19日号.jpg
『アサヒグラフ』1924年3月19日号に掲載された村山知義の三角の家

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未来派百周年と三角の家(5) [村山籌子]

5.三角の家と籌子・亜土親子

 村山知義と結婚した籌子も当然、この家に住むことになった。雑誌『婦人之友』の1924(大正13)年10月号には八月五日に籌子が書いた「三角の家より」が掲載されている。

「八百屋さんや、酒屋さんに、物を頼むときに「あすこの、三角の家ですよ。」といふと「村山さんですね。」と、誰でも、すぐ分ったやうな返事をして届けてくれる。私は、帽子もかぶらず、洋服を着て、「あすこの三角の家の人だよ。」とか何とかいって、私が角をまがって、家へはいるまで見てゐる。」

この家の入口にはペンキで「マヴォ」とかドイツ語で「意識的構成主義」とか大きく描いてあった。そこで、家の前を通る人は振り返りながら、「おい、ここがマヴォかい。」などといっていたようだ。籌子は少し誇らしく、しかし恥ずかしがってもいる。

家は、ほんとは、三角ではなく、普通の家を、縦に眞半分に切り下げたやうな恰好で、それが二棟鍵形につゞいて、屋根で、色んな角に交叉してゐるので、どちらから見ても、變って見える。そして、なかなか機械的な美がある。」
「畫室だけは、割合に大きくて、十畳敷位の板の間で、まるで工場のやうに荒れ果てゝゐる。方々に、柱のやうな、三角の長い隠戸棚がついてゐて、そのなかには、物尺や、繪具や、丈木や、紙や、原稿や、エハガキが、亂雑にはいつてゐるので活動寫眞の、變な仕掛のやうな気がして、誰もゐなくなると、一つ一つ開けてみたり、しめてみたりして、考へ込んでしまふ。」

 そして食堂はといえば、四畳半くらいで板の間で、あげくに四角でない形をしており、壁には意識的構成主義の大きな壁画がある。壁画は部屋いっぱいに広がっている。小さな部屋に大きな窓が一つあり、戸が五枚もついて、外に開いているのだ。便所は、五角か六角かの変な形で、戸のハンドルが普通の逆についているので、逆にまわると開くように変な状態で、玄関も細くて変則な六角形で、絵やがらくたが山のようだったそうだ。外では土管に高見沢が寝ていて、朝になると「おはようございます」と起きてくるような状態だから新婚家庭とはいえ、籌子は大変だったろう。

 『アサヒグラフ』に掲載された図面を見ていて、ふと気づいたことがある。それはやけに目立つ「ドア」という文字。特に西側のドアは「アド」と読めるのである。「アド」、それは村山知義と籌子の間に生れた長男の名前、「亜土」である。『演劇的自叙伝2』には亜土誕生に関する記述があり、実際にはギリシャ神話のアドニスからとったと知義は書いている。しかし、三角の家の図面をみるにつけ、この図面を見ているうちに思いついたのではないかと、単純にひらめいたのではないかと思うのだ。また一方では、別の考えも浮かんでくる。『母と歩く時』(村山亜土著、2001年 JULA出版局)掲載の「村山籌子年譜」によれば、1924(大正13)年の項目に『子供之友』6月号に「プリンス・アド」という童話を書いたとある。亜土という名前、この童話からとったのかもしれない。想像にすぎないのだけれど、図面の「ドア」の文字から籌子が「プリンス・アド」を生み出し、これに挿画をつけた知義がアドニスにちなんでも良いよな、と思い「亜土」と漢字をあてたのではないかと考えてしまった。ドイツで未来派展覧会から出発した村山知義は、三角の家でマヴォの仲間とともに芸術的な「前衛」を築いた。そして、その後には、夫婦そろって思想的な「前衛」へと同じ三角の家に住みながら向かったのである。

村山知義の三角の家「アサヒグラフ」1924年3月29日号.jpg
『アサヒグラフ』1924年3月19日号の三角の家の図面

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村山亜土『母と歩く時』
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未来派百周年と三角の家(4) [村山籌子]

4.籌子との結婚

「彼女は非常にシッカリした自分を持った娘であった。それは時として強過ぎると思われるほどのものであった。だが流石の彼女も、当時の私の、いわば絢爛たる働き振りに、幻惑されてしまった。そしてしばしば私の所へ通って来るようになった。」

前後で引用したのは『演劇的自叙伝2』の43章で、「二十三才、二十四才 籌子との結婚」と題されている章である。

「ミセス羽仁は「岡内さんは芸術的な人だから知義さんと結ばれるのは当然だろう」といって、初めから賛成して下さったばかりか、自由学園高等科の卒業生の最初の結婚だというので、仲人になって下さり、またアメリカ建築家で今ではもうこわされてしまったライト氏の設計した自由学園の立派な講堂で挙式することにして下さった。」

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自由学園・明日館

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明日館の教室内部

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明日館の講堂

「むろん、アルコール類は一切出ない式だったにも拘らず、マヴォの連中は酔っ払ったように興奮し、雑司ヶ谷から東中野まで、私を真ン中に肩を組んで、大声で、この意味の全くわからない南洋の唄を大声で叫び続けながら歩いた。私は花嫁を置いてきぼりにして、家に帰ってしまったのである。」

 現在の自由学園・明日館に籌子を置いたままにして、勝手に帰ってしまったというのだから、ひどいものである。明日館から三角の家のある上落合186番地までは歩いて25~30分くらいだろうか。雑司ヶ谷とはいいながら、明日館は上屋敷だから、まっすぐに上落合に向かった場合には、雑誌『赤い鳥』の発行所のあたりを通って、下落合の坂をおりて東中野方面に向かう道を歩いたのだろう。もちろん、ここに書かれている「家」は『アサヒグラフ』に紹介された「三角の家」である。

目白庭園赤鳥庵.JPG
目白庭園にある赤鳥庵。すぐ近くにあった『赤い鳥』編集部にちなんでいる。
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未来派百周年と三角の家(3) [村山籌子]

3.三角の家

 柳瀬正夢は村山知義の自宅のすぐそばの車屋の二階に住んでいたし、尾形亀之助は1923(大正12)年から1926(大正15)年の暮れまで上落合742番地にあった村山のおばが所有する借家に住居した。尾形のところには何度か村山は遊びにも行っていたようだ。現在の西武新宿線中井駅にほど近い、高台の上である。のちに田河水泡となる高見沢路直は、よく村山の自宅の前の土管で寝ていることもあったようで、村山を中心に前衛芸術家が上落合の地域にたむろしていたことになる。当然ながらMAVOの拠点、後には雑誌「MAVO」の発行所となったのは村山の自宅であり、アトリエであった。雑誌「アサヒグラフ」の1924(大正13)年3月19日号の22頁に「新洋式の住宅」と題して村山のアトリエが写真と図面で紹介されている。紹介文を引用する。

村山知義の三角の家写真「アサヒグラフ」1924年3月19日号.jpg
『アサヒグラフ』1924年3月19日号に掲載された村山知義の三角の家

「これは西郊下落合にある洋畫家村山知義氏のお住居とアトリエです。建坪十七坪、中二階、室数五間、工費二千五百圓ほどださうです。特にそのアトリエの装飾柱は三角形にして中を物入れに利用してをられ、凡てに簡素な趣の中に美しさのあるお住居です。」

このアトリエのついた三角の家において多くの意識的構成主義の絵画は制作されたのであった。

「そのうちに、自由学園の高等科の第一期生だった岡内籌子と知りあった。在学中に文学的な才能を羽仁もと子女史に発見され、いろいろの文人を訪問して記事を「婦人之友」に載せていたが、佐藤春夫氏を訪問した記事が春夫氏に激賞され、やがて、童話や童謡を書くようになり、それに添える童画を毎月私が描くようになった。」 (『演劇的自叙伝2』)

永田一修装丁『プロレタリア演劇論』村山知義1930年天人社.jpg
永田一脩装丁による村山知義の『プロレタリア演劇論』昭和5年天人社刊
                                   
 1924(大正13)年、籌子は雑誌『子供之友』の編集に従事、その1月号から童謡、童話を発表し始めていた。時期はかなり後になるが、雑誌『婦人之友』の1932(昭和7)年に連載された「ピノッキオの冒険」が私は好きである。コルロッディ作のイタリア語の物語を村山籌子が翻訳している。そして挿画は村山知義が描いている。

村山知義挿絵「ピノッキオの冒険」村山かずこ訳「婦人の友」昭和7年8月號タイトル.jpg
『婦人之友』1932年8月號「ピノッキオの冒険」(村山籌子訳)への村山知義の挿絵
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未来派百周年と三角の家(2) [村山籌子]

2.MAVOの結成に向けて

マリネッティとの出会いと、その後の出来事は、『演劇的自叙伝2』の一節を引用して紹介したい。

「マリネッチはりゅうとした燕尾服でホテルにいた。ヴァッサリの世話で、ワルデンの画廊の未来派の展覧会に出品し、次いでデュッセルドルフ万国博覧会にも三点ずつ出品した。」

こうした直接の出会いは持てたものの、ホテルにいたマリネッティは年若い日本人、村山を鼻にもかけなかったようである。こうして村山は、ドイツにおいてのデビューを未来派の展覧会において飾ったのであった。
 
 村山知義は1923(大正12)年1月31日に上落合の自宅に帰っているが、彼が抱えて帰ってきたのは、哲学書でも、未来派美術でもなく、「意識的構成主義」であった。村山が意識的構成主義を日本に持ち帰るまでは、フォービズムと未来派が広く知られていたようだ。未来派美術協会には普門暁をはじめ、木下秀一郎、渋谷修、ブリュリューク、尾形亀之助、大浦周蔵、柳瀬正夢などが参加。展覧会には稲垣足穂も出品している。また未来派といえば、その代表作として東郷青児の「パラソルをさす女」がよく引き合いに出されるが、東郷もイタリアにマリネッティを訪ね、行動をともにした時期がある。マリネッティの戯曲『電気人形』を翻訳した神原泰は1924(大正13)年に『未来派研究』を出版した。神原泰はマリネッティと直接文通を続けていた。

東郷青児『新東京歌集』由利貞三著 白帝書房 昭和5年.jpg東郷青児装丁『新東京歌集』由利貞三著白帝書房 昭和5年裏.jpg
東郷青児が装丁した、昭和5年白帝書房より刊行された由利貞三『新東京歌集』の表紙と裏表紙

 ところで、日本に帰国した村山は「意識的構成主義展」をドイツからの荷物の中の絵画の到着を待たずに、つまり帰国後に描いた絵のみで構成した展覧会を矢つぎばやに開催した。その第二回の展覧会は自宅である上落合186番地のアトリエで開催したものであった。近くに住んでいた柳瀬正夢、尾形亀之助のほか辻潤も見に来たという展覧会に訪ねて来て、お互いに語り合った画家を中心に新たな芸術家集団を作ることになる。それがMAVO(マヴォ)である。結成は1923(大正12)年の7月頃のこと。尾形亀之助、柳瀬正夢、大浦周蔵、門脇普郎、渋谷修、加藤正男、岡田竜夫、戸田達雄、高見沢路直、住谷磐根、ブブノヴァ、矢橋公麿などがメンバーであるが、結果的に未来派美術協会から尾形、柳瀬、大浦、門脇、渋谷などが引き抜かれた形になってしまった。

村山知義『暴力団記』日本評論社 昭和5年.jpg
村山知義『暴力団記』昭和5年日本評論社 恩地孝四郎の装丁
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未来派百周年と三角の家(1) [村山籌子]

1.未来派宣言100周年

 今年の2月20日は「未来派創立宣言」から丸100年の節目であった。1909年2月20日、『フィガロ』紙にフィリッポ・トンマーゾ・マリネッティが創立宣言を掲載してからまさに一世紀が経過したのである。

 「未来派(フューチャリズム)」、それは過去の芸術の徹底的な破壊と機械化によって実現された近代社会の速さを讃えるもので、イタリアを中心として起こった前衛芸術運動であった。その後のアヴァンギャルドな芸術運動の起点となった点でも未来派はとても重要な運動であった。日本にも同時的に未来派は入ってきた。何と日本での未来派宣言の紹介は、森鴎外の翻訳によるもので、雑誌スバル』が1909年に掲載したものであった。また、実際に未来派芸術が日本で紹介されたのは、イタリアから直接ではなく、ロシアからであった。ロシア未来派のダヴィッド・ブリュリュークが来日、各地で大規模な展覧会を行なったのは1917(大正6)年のことだった。そして、1920(大正9)年、普門暁が未来派美術協会を設立した。そして未来派展覧会を開催した。

「闘争のなかにしか、もはや美はない。攻撃的な性格をもたない作品に傑作はありえない。詩は、未知の力を人間の前に屈服させるための、未知の力に対する荒々しい攻撃として把握されねばならない。」(未来派宣言の一節)

 未来派の総帥マリネッティに直接会った男がいる。ベルリン留学していた村山知義である。村山は1922(大正11)年にベルリンに哲学の勉強のために留学するも、ワルデンの画廊「シュトゥルム」にたびたび訪れるうちに前衛芸術に魅かれ、自ら前衛芸術家に転じてしまったのであった。村山の著書『演劇的自叙伝2』(1971年 東邦出版社)にはこの時期のことが書かれている。その年、デュッセルドルフで国際美術展覧会が開催され、そこにイタリアからマリネッティが未来派の宣伝のためにベルリンに来ていたのであった。そして、その先触れとしてベルリンに乗り込んでいた、詩人のヴァッサリと画家のマドモアゼル・ボグスラヴスカヤをワルデンから紹介された。指定されたホテルの部屋を訪れ、村山は作品を見せているようだ。

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村山知義の『演劇的自叙伝2』

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村山知義が中心になって発行していた雑誌『Mavo』6号。ヨーロッパのアヴァンギャルド雑誌との交流があった雑誌。
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高い大空を見上げるとき―小林多喜二と村山籌子(4) [村山籌子]

4.多喜二の死と村山籌子

 そこで立野と籌子は蔵原と会う手筈を打ち合わせたのだが、立野は小林多喜二を蔵原に会わせてやりたいと考えた。上京後の多喜二はずっと蔵原に会いたがっていたからである。そして、会合の場は多喜二自身が中野の知人宅を借りられるよう手配した。蔵原との会合を終えた多喜二は「おれ、今日の蔵原の話で、大分わかったよ」とうれしそうに言ったという。この後、文化運動の方向は蔵原の指導理論に従って急速に変貌、尖鋭化していった。多喜二は、やがて作家同盟の書記長であり、コップの中央委員であり、共産党員でもあるという存在になる。蔵原が特高に検挙された直後、多喜二は地下に潜ることになる。立野が生きている多喜二に最後に会ったのは、その直後のことで、立野に党員にならないかと誘ったのだという。しかし、立野はそれを拒んだのだった。

わたしには、何だか多喜二が駈けすぎて、高い崖から落ちたような気がしてならなかった。しかし小林は落ちたのではなかった。―殺されたのだ!

1933(昭和8)年2月20日、築地署に連行された多喜二は留置所において死亡した。心臓麻痺と発表されたが、特高の執拗な拷問によって殺されたのであった。杉並・馬橋(阿佐ヶ谷)の自宅に戻った遺体を取り囲む友人や仲間が撮影された有名な写真がある。私は、その中に村山籌子もいるものとばかり思っていた。しかし、改めてよく見ると籌子の姿はない。写っているのは、原泉、千田是也、岡本唐貴、立野信之、山田清三郎、鹿地亘、上野壮夫などである。親しかったはずの籌子はいったいどうしたのだろうか。ここで、再び村山亜土の「小林多喜二」に戻ろう。そこには、多喜二の死の直後の母、籌子のことが描かれている。

寒風の中、ずいぶん待たされて、妙に細長い部屋に入った。そこは豊多摩刑務所の面会室。昭和八年二月のことである。四方が白壁で、正面の、高さ一メートルほどの腰板の上に五十センチ角の板窓があって、片隅に黒い制服の男が両腕を組んでふんぞり返り、こっちを睨んでいた。その板窓の前で待っていると、それがいきなりストーンと落ちて、坊主頭の男の顔があらわれた。前年四月、父は治安維持法違反ということで投獄されていたのだ。長髪の父しか知らない私が、別人だと思って、一瞬、ポカーンと見上げていると、母が「お父さんよ」と背中を押した。私は戸惑い、「えーっと、これ」と、オーバーのポケットに持っていたキャラメルを差し出した。父の顔が困ったように笑った。すると、看守が立ち上がり、「だめだ、だめだ!」と手を振った。私が立ちすくむと、母が私をうしろ抱きにして、ハンドバックを私の胸に押しあてて、じっと静止した。そのイギリス製のハンドバックは、母が自由学園の学生の頃からのもので、やわらかい黒皮、縦二十センチ、横三十センチほどであった。それを見て、父の目がカッと大きくなり、宙を泳ぎ、暗く沈んだ。母はわざと、本や、下着や、弁当の差し入れについて早口に話していたが、ハンドバックには白墨でこう書いてあったという。「タキジコロサレタ」。

通夜葬儀は親戚以外は特高が検束するという厳重警備のなかで行われ,堀ノ内火葬場で荼毘にふされた。おそらくは連絡係の一部を受け持っており、隠れ家を紹介したこともあった村山籌子には、通夜や葬儀は危険だったかもしれない。それでも、大きな危険を冒してでも夫である村山知義に多喜二の死を知らせたのだ。それは、籌子には多喜二の死が有している今までとは違う何かを感じたからであろう。時代は多喜二の死を境にして大きく変わっていく。それは、中国への侵略を軸とした戦時体制へのシフトであった。多喜二の死は33(昭和8)年2月だが、そのわずか3年前の作家の一斉検挙の際には、獄中からの指示によって多くの著書が出版されていた。著者二人が別々に投獄されていながら、小林多喜二、立野信之共著の『プロレタリア文学論』は天人社から刊行されている。それからわずかに3年、状況は一変し、自由な言動は一切封じられる時代を迎えたのである。こうも短期間の間に変化するのだ、われわれも心する必要がある。言論や自由な表現は、多喜二とともに「殺されてしまった」のであったのだから。

「女人藝術」2-10号 昭和4年10月號 村山かず子写真.jpg
村山籌子

プロレタリア文学史下巻 山田清三郎.jpg
山田清三郎『プロレタリア文学史』下巻 多喜二の死の記述もここに
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