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新宿・落合散歩(8) [落合]

第六章:機械美学の故郷としての落合

 機械美学の日本における提唱者は板垣鷹穂である。板垣は東京市外上落合599番地に大正末から住んだ。山手通の新規建設にともなう道路拡張が敷地にかかったため引越しするしかなくなるまで上落合の邸で暮らした。板垣鷹穂は1894年東京の生まれ。東京帝国大学を中退、1922(大正11)年に『西洋美術史概説』(岩波書店)、『新カント派の歴史哲学 』(改造社)を出版。ヨーロッパに留学をした。その後は建築、工業デザイン、モダニズム美術、文化の研究者として大学で教鞭をとる一方、数多くの雑誌に論文を執筆、それらを著作としてまとめ立て続けに発表していった。そしてなにより板垣を有名にしたのは機械美学を提唱したことにあった。だが、そもそも藝術における「前衛」すべてに興味をもっていた板垣は、美術や建築、工業デザインばかりではなく、演劇や映画、写真に関わる文章も数多く書いている。第五章で書いたように新興写真についての論文も世の中の流れをリードする形で書いていた。「前衛」とは必ずしもアヴァンギャルドなものばかりではない。社会主義的な考え方も当時の「前衛」であり、板垣はモダニズムを提唱する一方でプロレタリア文化についても受容している。そういうところ、きわめて懐が深い。このあたりの板垣の関心がストレートにわかるのは彼自身が編集主幹として雑誌の体裁から中身まで関わっていた『新興藝術』と『新興藝術研究』の二つの雑誌の中身であろう。『新興藝術』は1929(昭和4)年の創刊。板垣は「機械美論」をこの年に執筆している。また『機械と藝術との交流』の出版も1929年であった。創刊号には清水光「映畫と機械」、岩崎昶「宣傳、煽動手段としての映畫」、板垣鷹穂「航空機の形態美に就いて」、吉田謙吉「舞臺装置者の手帖(一)」、日下守夫「スゴンザック序論」、吉川静雄「パシフィック二三一號」が掲載された。第二号にあたる秋季特大號では、清水光「近代舞臺装置論」、香野雄吉「建築の工業化」、岩崎昶「宣傳、煽動手段としての映畫(續)」、益田甫「レビュウの歩んで來た道」、伊奈信男「表現主義絵畫の回顧的考察」、永田一脩「シュルレアリスム批判」、吉田謙吉「舞臺装置者の手帖(二)」、板垣鷹穂「ヴェルトフの映畫論」が掲載されている。第3号では、香野雄吉「新ロシアの建築」、藤島亥治郎「現代建築の合理性と日本趣味」、板垣鷹穂「グラスのロマンティック」、西田正秋「Archipenko作人體像への一考察」山田肇「エイゼンシュテインの「全線」」、イ・マーツァ「科學の革命家」が掲載されている。産業デザインや建築デザインを中心に美術、映画、演劇、舞台美術など多彩な論文で構成されており、きわめて刺激的である。基本はモダニズム志向である。表紙のデザインは吉田謙吉。正方形に近い判型、描き文字を大きく扱ったモダンなもの。また板垣の論文への挿入写真はワルター・グロピウスのバウハウス・デッサウ、ミース・ファン・デル・ローエのプロジェクト・アダム、ブルーノ・タウトのグラスハウス、エーリヒ・メンデルゾーンのモーゼ・パビリオンなどであり、最先端の建築デザインを写真で紹介している。なかなかに魅力的な紹介である。吉田謙吉は築地小劇場では舞台美術の分野で活躍、関東大震災後のバラック建築の設計においては村山知義とともに活躍した。また早稲田の今和次郎と共に行った考現学研究は特に有名であるが、その活動範囲はきわめて広かった。その関心の範囲は容易には計り知れない。吉田は装丁美術においても力を発揮(川端康成の『浅草紅団』初版は吉田の代表作)したが、『新興藝術』表紙も吉田の装丁代表作の一つであると考える。
一方、『新興藝術研究』は創刊号がプロレタリア文学の特集、第二号は新興文学、第三号は演劇や舞台美術、産業デザイン分野の特集になっている。小林多喜二や平林たい子、山田清三郎といったプロレタリア文学領域の作家たちが執筆しているし、林芙美子や尾崎翠も登場する。尾崎翠は、その代表作「第七官界彷徨」が『新興藝術研究』第二号に全文掲載された。多喜二の住まいは杉並であるが、平林も山田も林も尾崎も落合在住作家たちである。ただ、文学領域になると妻の直子の影響を感じる。板垣直子は日本近代文学の研究者にして文藝評論家。尾崎翠と同じ1896年に青森に生まれた。日本女子大学英文科を卒業後、東京帝国大学の第一回女子聴講生となり、哲学や美学を聴講した。長谷川時雨が1928(昭和3)年に創刊した雑誌『女人藝術』に参加、林芙美子や尾崎翠、村山籌子など落合在住の作家たちと同じ誌面に論文が掲載されている。それ以前、1923(大正12)年に『レオナルド・ダ・ヴィンチ』(岩波書店)を翻訳しているが、獄中にいた小林多喜二が板垣鷹穂にあてた手紙のなかで「奥さんは『レオナルド・ダ・ヴィンチ』の翻訳をされていますよね?」と確認しているくだりがあった。また、小林多喜二と板垣鷹穂とは機械論においてつながっていたのだ。多喜二は板垣の機械美学に関する論文を読んでおり、それを板垣への手紙の中で書いている。多喜二を蔵原惟人に会わせ、レポ役として支えたのは村山籌子であったが、多喜二の葬式に籌子の姿はない。小林多喜二の葬式の際は、近しい親戚以外は皆拘束されたが、板垣夫妻は親族以外で列席できたまれなる二人であった。多喜二はとても親しみやすい性格であったようなので、村山知義の家で作家同盟の会合の後などに、板垣夫妻の上落合の家にも遊びに来ていたのかもしれない。知義と籌子の長男である亜土の回想によれば、会合に来ると亜土を膝に抱えてかわいがってくれたようだ。『新興藝術研究』にも多喜二の文章は掲載された。板垣直子は女流作家をよく論じたが、その論調は厳しく、時に辛辣であった。直子は片山廣子が深くかかわり、渡邊とめ子が発行していた雑誌『火の鳥』に論文を数多く掲載した。『火の鳥』には多くの女性たちが参加、『女人藝術』廃刊後の女流文学者の結集地の感があった時期がある。そして、1933(昭和8)年に啓松堂から女流文学シリーズが刊行される。最初の刊行は板垣直子の『文芸ノート』である。女流作家にたいする批評をまとめた一冊である。このシリーズは城夏子『白い貝殻』のほか落合在住作家の林芙美子の著作や平林たい子『花子の結婚其の他』、尾崎翠の『第七官界彷徨』などを次々に刊行した。これらの出版は板垣直子が進めた。中井五の坂の洋館に越した林芙美子も上落合842番地に借間していた尾崎翠も板垣邸をよく訪問している。二人ともに板垣邸から歩いて5分くらいの距離に住んでいた。たとえば林芙美子の日記への記載は面白い。ある日、林と尾崎が公楽キネマ(村山籌子の家のそばにあった上落合唯一の映画館)に映画を観に行き、かえりには二人して板垣邸で話し込んでいる。すでに尾崎の「第七官界彷徨」が発表されており、辛辣でしられた直子がこの作品についてはベタ褒めであったから、これからの作品について話し合っていたのかもしれない。芙美子を含めて帰宅はかなり遅かったようだ。

 話をもどそう。機械芸術論であるが、天人社から1930(昭和5)年に刊行された『機械芸術論』は板垣鷹穂の編集でまとめられた機械芸術に関する論文の集成になっている。ここには村山知義も執筆している。こうした機械美学に基づいた機械芸術論は、たとえば写真家・堀野正雄との一連のグラフ・モンタージュ作品をうみだしていった。また小説の世界でも横光利一の「機械」に強く影響を与えたものと考える。また、稲垣足穂の作品にも影響を与えていると考える。小林多喜二の受容は意外であったが、そもそもロシア革命初期のアヴァンギャルド的な藝術運動では機械や建築的な新たな造形や映画といった新たなメディアにおける実験的な作品や抽象的なオブジェの立体的な構造による構成などが生み出されており、ロシア革命後の世界を一つの模範とする左翼的な文化人にとって機械美学は受容できる考え方だったのかもしれない。世界的な地平でみた場合、世界は1920年代という時間軸のなかでダダ、未来派、構成主義、アヴァンギャルド、フォルマリズムなどの激しい潮流がながれ、合流し、混ざり合う時代であった。そういう時期に板垣も村山もヨーロッパに留学をし、現地でこうした動きにじかに触れてきてしまったのであった。板垣鷹穂の機械美学を主軸にした一連の著作はじつに魅力的だ。そしてどの著作にも堀野正雄の写真が構成的に配置されている。それは、1920年代が大衆の時代となり、マスプロダクトの時代を迎え社会の在り方が変容し、生産方式が変わっていったことに大いに関係していると思われる。人口は都市部で急激に増加した。そして、合理性と機能性がもてはやされ、機能美がうたわれることになる。この世界的な大きなうねりを日本においては上落合という場所が担ったことは興味深い。
私の落合散歩のはじまりは瀧口修造であった。旧瀧口邸は西落合にあって、オリエンタル写真工業のすぐ近くである。瀧口も戦前、多くの写真に関する文章を書いている。新興写真と機械美学の故郷である落合に瀧口修造も魅かれたのだろうか。
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新宿・落合散歩(7) [落合]

 その後の新興写真の流れは雑誌『光畫』に集約されてくる。『光畫』の創刊は1932(昭和7)年5月。野島康三の発行雑誌に近かった『光畫』であるが、木村伊兵衛、中山岩太が同人として参加していた。新興写真研究会の飯田幸次郎も創刊号から参加している。掲載された写真は名作「看板風景」。自宅は浅草であったが、新宿の路地を撮影した一枚であった。創刊時の飯田の役割には堀野正雄をこの雑誌に参加するように勧誘することもあったようで、創刊号には飯田に誘われながらなぜ参加しなかったのか、についての理由書が掲載されている。しかし、その理由が解除されたのか、第2号から堀野正雄は『光畫』に登場、常連のようになる。1巻3号から6号まで「グラフ・モンタージュの実際」を連載した。つまり『光畫』では新興写真の中でもドキュメンタリー的なストレートな表現領域で、すぐれた写真をとっていた木村伊兵衛、堀野正雄、飯田幸次郎の3人がそろい踏みしたことになるのだ。しかし『光畫』は長くは続かなかった。1933(昭和8)年12月発行の2巻12号をもってその幕をおろした。通算18冊を発行、やりたいことをやりつくしての廃刊だという。落合関係者としては、板垣鷹穂と山内光が参加している。主な参加者を列挙すると新興写真の構図全体が垣間見える。野島康三、木村伊兵衛、高麗清治、佐久間兵衛、飯田幸次郎、中山岩太、伊奈信男、堀野正雄、堀不佐夫、花輪銀吾、ハナヤ勘兵衛、三浦義次、中井正一、清水光、紅谷吉之助、鹿児島治朗、光墨弘、安井仲治、原弘、山内光、富本憲吉、板垣鷹穂、古川正三、佐瀬五郎、長谷川如是閑、吉澤弘、山脇巌、名取洋之助、佐々木太郎、長峰利一、高田保、中河與一、土方定一。私はその後の戦時体制に大きく傾斜していった時期を1933(昭和8)年春を境と考えてきた。新興写真も『光畫』を白眉にして戦時体制に組み込まれていったのではないだろうか。木村伊兵衛、堀野正雄、原弘、山内光、名取洋之助などが日本工房によって対外宣伝に使われ、表現は高度化したが、戦時体制の一環に組み入れられていったのであった。堀野正雄はフリーのプロカメラマンとして1940年に上海に移り、陸軍報道部嘱託として記録や宣伝を担当するようになる。そして敗戦とともに堀野は写真表現を捨てる。引き揚げ後はストロボメーカーを立ち上げ、その経営に集中した。新興写真家にしてプロカメラマン堀野正雄を戦時体制という怪物が殺したのだ。
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新宿・落合散歩(6) [落合]

第五章:新興写真の故郷としての落合

 新興写真の紹介に本格的に取り組んだのは、雑誌『フォトタイムス』である。発行主体はフォトタイムス社であるが、親会社は西落合・葛ケ谷にあったオリエンタル写真工業である。オリエンタル写真工業は、印画紙や写真フィルムを製造、販売、輸入をする会社として1919(大正8)年に菊地東陽によって創業された。同社が葛ケ谷に工場を建設したのは1920(大正9)年のことであった。西落合は風致指定地域であったこともあり無理な開発はせず、まわりの緑を活かしての工場作りを行った。1924(大正13)年 同社の企画宣伝課内にフォトタイムス社を設立、3月に雑誌『フォトタイムス』を創刊した。創刊時の編集主幹は木村専一であった。1929(昭和4)年3月から木村は雑誌内に「モダーンフォトセクション」というコーナーを設定し、欧米の写真の新動向、つまり新興写真の紹介を行った。これが日本の写真界に大きな影響を与え、雑誌購読者や写真掲載者の中から日本における新興写真の担い手が数多く登場することになった。そして、1930(昭和5)年に木村専一が結成した新興写真研究会につながっていった。新興写真研究会の主要メンバーは木村のほかに堀野正雄、渡辺義雄、伊達良雄、古川成俊、三ツ村利弘などがいた。また、花輪銀吾や福田勝治、のちに『光畫』で活躍することになる飯田幸次郎もそのメンバーであった。1930(昭和5)年11月に『新興写真研究』という会誌を発行、会員の写真作品や板垣鷹穂、堀野正雄などの論文を掲載した。1931(昭和6)年1月に発行された第2号に飯田幸次郎は写真を提供している。1931(昭和6)年7月発行の第3号をもって、木村の渡欧によって『新興写真研究』は休刊したが、展覧会は1932(昭和7)年までの期間で合計7回開催されている。日本における新興写真の動きのなかで、西落合という場所、オリエンタル写真工業という会社、フォトタイムス社という出版社が果たした役割は相当大きかったものと考えている。また、オリエンタル写真工業は1929(昭和4)年にオリエンタル写真学校を設立する。当初の目的は写真界の全体的なレベルの向上、写真技術の伝達とオリエンタル写真工業製品への認知度を高め、製品の普及を図ることであったが、化学や芸術学といった領域に及ぶ広範な教育カリキュラムが組まれ、写真家育成の総合的な教育機関として多くの写真家を育成した。卒業生には映画監督の木下惠介、画家の瑛九、写真家の植田正治、林忠彦などがいる。

 一方、落合地域という場所によって写真を考える場合、その中心として考えるべきは堀野正雄である。堀野は戦前期には珍しいプロフェッショナルな写真家をめざし、そうなった数少ない写真家であった。堀野は写真家としての活動の最初期、築地小劇場の舞台写真を主に撮影していた。そしてそんな時期に村山知義の三角のアトリエの家に居候していたようだ。村山の友人には俳優の山内光がいた。山内は本名を岡田桑三といい、村山と同時期にドイツに留学していた。1924(大正13)年に帰国、役者として築地小劇場に参加している。その後、1926(大正15)年には日活に入社、1928(昭和3)年に松竹蒲田に移籍、その間、映画俳優として活躍するのだが、もともとクリエイター志向であったので、映画俳優だけでは満足しなかった。1929(昭和4)年、映画技術の視察を名目にモスクワ経由でソ連、ドイツへ旅行、エイゼンシュテインやメイエルホリドといった演出・制作側の巨匠と親しくつきあっている。日本帰国後は村山知義や堀野正雄と共に国際光画協会を設立した。国際光画協会の活動で新興写真の流れを牽引したイベントに「独逸国際移動写真展」がある。日本での開催は1931(昭和6)年のことである。もともとはドイツ・シュトゥットガルトで1929(昭和4)年に開催された「Film und Foto」展であり、その写真部門のみを日本への巡回展にしたてたのであった。新宿紀伊国屋で開催された展覧会は、写真作品が1000点以上もあった大規模なものであったし、欧米の新興写真を代表するラースロー・モホイ・ナジ(バウハウス)、ベレニス・アボット、アンドレ・ケルテス、ウジェーヌ・アジェらの写真が展示され、質的にもレベルが高く、これを見た多くの写真家に影響を与えた。岡田桑三は展覧会招聘の中心として活躍したが、この展覧会を通じて、その後つきあいが深くなる木村伊兵衛と知りあうことになる。また、関西新興写真の代表格の一人、安井仲治とも知りあうことになった。ドイツからの展覧会の招聘ということもあって村山知義は尽力したようであるが、村山は写真に興味はあっても表現手段としての写真に取り組んでいないのは不思議な気がする。堀野正雄は展覧会招聘の中心にはいなかったようだが、この時期には機械美学の提唱者であり、やはり上落合の住人である板垣鷹穂とのグラフモンタージュの制作に励んでいたものと考える。板垣鷹穂は未来派にも通じるのだが、機械や建築といった機能的なデザインに注目し、その優秀さと美との一致を提唱した美学者であった。板垣の『機械と芸術との交流』(1929年 岩波書店)や『優秀船の芸術社会学的分析』(1930年 天人社)、『芸術的現代の諸相』(1931年 六文館)には1920年代を象徴する産業構造上の革命によって生み出された建築、鉄橋、鉄塔、広告塔、ネオンサイン、看板、船舶、機械などが美学の対象として取り上げられ、その図版として堀野正雄の写真が使われている。また、その写真図版の組み合わせ方が独特であり、単に写真を一枚一枚見せるのではない、組み合わせによって一連の写真が意味をもったり、形の類似をまとまりでみせたり等している。こうしたモンタージュの技法はこの時期の板垣鷹穂と堀野正雄との共同制作の大きな特徴であり、グラフ・モンタージュと呼ばれた。雑誌に掲載された代表的なグラフ・モンタージュは『中央公論』1931年10月号の「大東京の性格」である。板垣鷹穂構成、堀野正雄撮影によるコラボレーション企画である。こうしたグラフ・モンタージュの制作・構成方法論は、その後の日本工房や雑誌『NIPPON』や『FRONT』にも継承されていったものと考える。堀野正雄はこうして撮影した写真たちを一冊の写真集にまとめた。それが1932(昭和7)年に刊行された名作『カメラ・目×鉄・構成』である。グラフ・モンタージュは板垣以外との共同制作にも応用される。雑誌『犯罪科学』1931(昭和6)年12月号には村山知義構成、堀野正雄撮影による「首都貫流―隅田川アルバム」が掲載された。グラフ・モンタージュに関わった三人はすべて上落合に住んでいた。板垣鷹穂は上落合599番地、中井駅から西へ向かった現在では山手通のそばに住居があった。堀野正雄は中井駅から下落合側に少し歩いた大正橋の近くにスタジオを構えていた。村山知義は上落合186番地、小滝橋の近くにあった三角のアトリエの家に住んでいた。三人がともに住んだ上落合はグラフ・モンタージュの故郷といえるのかもしれない。山内光であるが、村山知義の妻である籌子から獄中の知義にあてた手紙によく登場する。村山の長男の亜土と遊んだり、上落合にあった公楽キネマに籌子とともに映画を観たりといった記述を読むと、この時期には上落合に住んでいたのではないかとも思われる。たとえ住んでいなくとも相当頻繁に訪問してきていたことになる。新興写真の初期において重要な役割を果たした堀野正雄ばかりではなく、写真理論の牽引車の一人である評論家・板垣鷹穂も、村山知義も山内光も落合に深いかかわりをもっていたことになる。
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新宿・落合散歩(5) [落合]

第四章:鳥取県人たち

 落合地域に居住した鳥取県人たちのはしりは日本画家にして民族学研究者である橋浦泰雄である。橋浦の自伝『五塵録』には1920(大正9)年に早稲田から上高田に引っ越してきた当時のことが書かれている。早稲田から上高田へ抜けるには必然的に落合を通り抜けることになる。橋浦のこの本によって当時の落合が「枝柿」で有名であったこと、「落合大根」が名産であったことを知った。以下は『五塵録』の一節。

「大正9年ごろには、早稲田から山手線の高田馬場までは、畑地をまじえながらもどうにか人家つづきだったけれど、線路を越すと一面が畑地で、人家はいわゆる村の形をとって、少家ずつが街道筋にあった。」

「この村は“落合の枝柿”といって枝柿の名所だったが、通りを笹竹で囲った農家の大きな屋敷内に、百年、二百年を経たであろう枝柿の老木が二十本も三十本も、家の棟よりも高く、黒い枝を拳のように振りまわして真っ赤な実をつけているのは偉観だった。そんな農家が何軒もあった。」

橋浦は落合火葬場を抜けた高台にあった2、3の寺に貸間を申し込む。すでに早稲田でも寺に間借りをしていた。その結果、宝仙寺という寺で間借りをすることになる。この貸間には鳥取出身の文化人たちが出入りするようになり、角田健太郎や涌島義博などが来ることが多かった。特に涌島義博は雑誌の同人として、叢文閣の社員として、第二回メーデーへの参加者同士としてなど連携する機会が多かった。涌島にとって、橋浦は同じ道で先を歩く先輩であったのだろう。従い、涌島義博と妻の古代子が上落合に住んだことも橋浦が上高田に住んだことの関連としてとらえるのも不自然ではないものと考える。涌島の上落合の家は早稲田から宝仙寺に向かう道にそった場所にあり、宝仙寺から徒歩で10分はかからない距離であった。橋浦泰雄も涌島義博も1926(大正15)年に結成された鳥取無産県人會の会員となるが生田長江、生田春月、白井喬二、橋浦時雄などとともに尾崎翠も会員として会報に掲載されている。その際の住所は「市外上落合」と記載されている。もちろん尾崎翠が松下文子と上落合850番地に住み始めるのは1927(昭和2)年はじめのことなので、この住所は涌島夫妻の住所地を借りたのだろう。おそらくは東京に出てきたときには涌島夫妻の家に宿泊していたのではないだろうか。3人は鳥取で発行された雑誌『水脈』の同人仲間であった。涌島は1920(大正9)年当時は足助素一の叢文閣に勤務し本作りを学んでいた。叢文閣は足助にとって師である有島武郎の著作集を出版するためにつくった出版社である。橋浦は弟の季雄を通じて1916(大正5)年に有島武郎と知り合う。その年のうちに足助素一とも知り合っている。泰雄は叢文閣で装丁を担当することも多かった。1921(大正10)年の第二回メーデーで橋浦も涌島も検挙されたが、デモの最中に作家・秋田雨雀から雑誌『種蒔く人』の同人でもあった佐々木孝丸を紹介された。第一次『種蒔く人』同人は秋田県人を中心としたが、橋浦や涌島も8月末に文芸誌を鳥取県人を中心に作り上げることにし、『壊人』が10月に創刊された。『種蒔く人』と『壊人』はプロレタリア文学の初期を代表する象徴的な雑誌となる。

 1922(大正11)年11月に鳥取市において水脈社が結成されたが、涌島が中心となったこの雑誌に橋浦泰雄も参加する。1923(大正12)年涌島や尾崎が中心となって水脈社主催の講演会が企画され、4月末に有島、秋田、橋浦が鳥取での講演を行った。直後に有島は心中してしまう。そして震災。鳥取に帰っていた涌島が妻の古代子を伴って再上京してきたのは震災後のことである。落合は震災の被害が少なかった地域であり、かつ震災後の住宅供給のために新築を急いだ地域であったので、そうした一軒に二人は住んだのかもしれない。南宋書院をおこすのは1926(大正15)年のことのようだ。多くの本が翌年の1927(昭和2)年~28(昭和3)年に集中している。林芙美子の詩集『蒼馬を見たり』は南宋書院から1929(昭和4)年に出版されているが、尾崎翠の紹介、松下文子の資金援助があってのことだった。涌島の妻である田中古代子は筆名を北浦みほ子と名乗り『大阪朝日新聞』の懸賞小説に「諦観」が当選するなどした作家であるが、鳥取県下初の女性記者でもあった。尾崎翠は1927(昭和2)年に上落合三ノ輪に越してきてから1932(昭和7)年鳥取に兄によって連れ戻されるまで上落合(850番地、842番地)に住んだ。上落合にあった映画館・公楽キネマには大家の奥さんとよく出かけたようである。公楽キネマは村山知義、籌子の家の裏にあり、籌子もよく見にいったので映画館の闇の中でふたりは出会っていたのかもしれない。また、尾崎翠は上落合599番地に住んだ板垣鷹穂、直子夫妻のところをよく訪問した。尾崎の代表作「第七官界彷徨」は板垣鷹穂が編集主幹をつとめた雑誌『新興藝術研究』2号に全文掲載された。尾崎翠の小説には落合の風景がふんだんに書かれている。その風景があまりに変ってしまって想像するのが難しくなっているのが寂しいのであるが。
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新宿・落合散歩(4) [落合]

第三章:東京熊本人村

 「下落合のいわゆる東京熊本人村に住んだ」という記述を見つけたのは弥生美術館において開催された挿絵画家・竹中英太郎展(2006年)の会場パネルだったと記憶している。竹中英太郎は雑誌『新青年』で活躍、特に江戸川乱歩の「陰獣」の挿絵や横溝正史の「鬼火」の挿絵など探偵小説の挿絵を描いて人気を博したこと、プラトン社の雑誌『クラク』の最晩年における挿絵画家として活躍したこと、この二点を知っていたのだった。しかしこの展覧会を見るまで、竹中英太郎が下落合に住んでいたことも、その住んでいた場所が「東京熊本人村」と呼ばれていたことも知らなかった。この日から私の「熊本人村」の探索が始まった。だが、その場所も実像もまったくつかめなかった。地元の古くからの住人に直接インタビューもしたが、誰一人「熊本人村」という言葉すら知らなかった。だが、糸口は竹中英太郎自身が用意してくれていた。熊本日日新聞(1980年)のインタビュー記事に下落合在住作家・小山勝清の家の近所に住んでいたこと、その借家には歌人で脚本家の美濃部長行を居候させていたことが書いてあった。そこで、小山勝清や、小山と同郷でやはり近くに住んでいた橋本憲三、高群逸枝の著作にあたっていった。その調査で小山勝清の著作『或村の近世史』(1925年)の前書きに小山の住所を見つけたのだった。そこには「下落合2194 著者」とあった。これで小山勝清の1925(大正14)年当時の住所が判明した。そこは中井四の坂上、坂を上りきってすぐの場所であった。この隣に竹中は住まいしたのである。

 1924(大正13)年末か1925(大正14)年になったばかりの時期に竹中英太郎は九州から東京にやってくる。1924(大正13)年は熊本でのはじめてのメーデーに参加、その後に筑豊炭鉱での労働争議にオルグとして参加、秋に挫折を経験しての上京であった。革命には勉強が必要と感じ、あらためて勉強するための上京であったという。しかし竹中は東京に暮らすようになった直後から雑誌に挿絵を描き始めている。それは協調会発行の『人と人』という雑誌においてであった。その3月号から筑波四郎の小説「天保快挙録」の挿絵を描いている(ただし当初は「日野永」名義)。これがデビューである。一方、作家・小山勝清も竹中と同様に熊本生まれの熊本育ち。売文社の堺利彦の弟子としていくつかの労働争議にもかかわっていた。その小山と親しく往き来していた熊本出身者に橋本憲三と高群逸枝がいる。高群は詩人、橋本は作家であり、平凡社の社員でもあった。世田谷で関東大震災を経験した二人は小山の紹介で東中野の借家に住むが、アナーキストの居候たちに切れて家出した高群。高群を連れ戻した直後の仲直りの家は、またも小山の紹介によった。今回は小山の家のすぐ近所であった。隣人はまさに竹中英太郎、小山勝清、美濃部長行。こうした熊本出身者が集まった一画を「熊本人村」と呼んだものらしい。当時は畑や植木畑がひろがり、落合大根で有名であった郊外の田舎であったが、現在は家が密集した住宅地に変わっている。高群逸枝の『火の国の女の日記』(1960年)によれば、別の隣人として詩人の春山行夫がいたらしい。春山は同郷(愛知)の画家・松下春雄や鬼頭鍋三郎などのメンバーとグループ・サンサシオンを結成しており、上京してきた仲間たちと下落合で共同生活をしていた。この後、佐伯祐三のアトリエに近い下落合1445番地に越している。ここには松下春雄も同居している。

 さて、この高群の『火の国の女の日記』には「下落合界隈」なる一章があり、当時の様子が描かれていて興味深い。以下に引用する。

「二人の再出発の家は下落合の高台の一郭、椎名町から目白方面にゆく街道筋にある長屋群の一つだった。この家も同郷の小山さんがみつけてくれたもので小山さんの近所だった。近くには森や畑が多く、私がよく鶏卵を買いにいった百姓家もあった。この一帯はそのころようやく新開地めいてきだしたところで、「芸術村」という俗称もあった。」

まさに中井五の坂上の情景であり、「芸術村」の俗称とは画家・金山平三のいう「アビラ村」のことである。金山平三のアトリエもつい最近まで現存していたが取り壊されていまはない。

「私との生活にも寛容とよろこびをもつようになった彼を、夕方ごちそうをつくっておいて、植木畑を抜けて古屋さんという学者の洋館の横で待っていると、彼が中井の田圃を通って下落合への坂道をのぼってくるのがうれしかった。下落合の日日は幸福だった。」

五の坂の途中に医学者・古屋芳雄の洋館はあった。というか、ごく最近まではあった。だが取り壊されてしまった。古屋芳雄もただの医学者ではない。白樺派の系譜につながる作家であり、『レムブラント』を翻訳した訳者である。かれの肖像は岸田劉生が「草持てる男の肖像」というタブローに仕上げており、国立近代美術館が所蔵している。

 高群に待たれていた男、平凡社の社員であった橋本憲三であるが、社主の下中彌三郎とともに新たな円本企画である「現代大衆文学全集」を進めていた。この企画の作家側の推進者、協力者が白井喬二であり、白井は父親が鳥取士族の出身であったので鳥取出身の日本画家・橋浦泰雄とはきわめて親しかったし、同人誌仲間でもあった。鳥取人脈で落合地域の住人を探すと、南宋書院の社長である涌島義博と妻で作家の田中古代子が上落合546番地に住んでいる。また1927(昭和2)年に上落合に越してくる作家・尾崎翠も鳥取出身である。古屋芳雄の洋館からまっすぐに五の坂をくだり、当時はなかった西武新宿線の線路を横切り、美仲橋で妙正寺川を渡ると、その少し上流が尾崎翠と松下文子が共同生活した借家の場所(上落合850番地)である。この借家には1930(昭和5)年になると林芙美子が越してくることになる。「放浪記」は1928(昭和3)年に雑誌『女人藝術』での連載が始まる。もとの「歌日記」が書かれたのは落合在住前のことであるが、実際に改造社から『放浪記』が刊行されたとき、林芙美子は上落合に住んでいた。ちなみに、作家・長谷川時雨が始めた女流作家を結集した雑誌『女人藝術』は夫である三上於菟吉が平凡社の「現代大衆文学全集」(橋本憲三が企画を進めた)に収録された小説の印税をもとでに使って創刊された雑誌である。

 話を竹中英太郎に戻そう。協調会発行の雑誌『人と人』の挿絵提供は表紙まで描く時期もあり、その点数が減ることはなく、時期も終刊号まで途切れなく続いた。そして産業組合中央会発行の雑誌『家の光』(1926年5月創刊)への挿絵の提供が始まる。『家の光』には熊本で竹中が世話になった作家の田代倫や隣人である小山勝清が小説を書いている。1927(昭和2)年の時期、『家の光』はまるで竹中英太郎アートディレクションのような様相を呈してくる。本名の竹中英太郎だけでは足りず「沙羅双二」のペンネームも使って大量の挿絵を描いている。本文中につかった挿絵の中でも小山勝清の小説「山國に鳴る女」連載につけた一連の挿絵が素晴らしい出来である。竹中は次にプラトン社を訪問している。プラトン社が発行する雑誌『クラク』の編集部をであった。当時の編集長は西口紫溟である。西口への面会は一刀研二を伴って行われた。一刀研二(本名:松隈研二)は佐賀出身、竹中も福岡生まれの熊本育ちなので、福岡出身の西口編集長を九州つながりで訪問したのかもしれない。それは1927(昭和2)年秋のことである。一刀はおそらくは再上京したばかりの頃、竹中は妻が身籠っており、引っ越しなどの必要もあった、まとまったお金が必要な頃のことだと思われる。西口は二人をともに評価し、『クラク』で仕事をさせることになる。特に竹中の挿絵は専属のデザイナーにしてイラストレーターである山名文夫に見せている。山名は即座に竹中の素質を見抜き、探偵小説に向いていると西口に進言した。西口は山名の判断を尊重した。雑誌『クラク』1927(昭和2)年11月号から探偵小説の挿絵画家として竹中英太郎は活躍するのだった。この時期、まだ竹中は下落合の借家に住んでいた。しかし、この年の年末から1928(昭和3)年3月くらいまでのどこかの時点で市ヶ谷に転居している。それに先立って橋本憲三・高群逸枝夫妻も下落合をあとにしていた。かくしてわずかの期間しか「熊本人村」はなかった。『クラク』でも竹中は重宝されたようで、次第に挿絵の点数が増えていった。専属画家にならないかとの誘いもあったようで、竹中は熊本の母親を迎える準備をしていたようだ。西口のところに一緒に訪問した一刀研二とは1928(昭和3)年5月に創刊された雑誌『左翼藝術』にもともに参加している。この雑誌は左翼藝術同盟の機関誌であるが、同盟には壺井繁治、三好十郎、高見順、上田廣などが結集した。ここに一刀研二は松隈研二として参加している。竹中英太郎も表紙を描くとともにマンガ、エッセイを寄せている。これは一刀研二の誘いによったのではないかと私は考えている。しかし、時代は大きく転換する。左翼藝術同盟は全日本無産者藝術聯盟に吸収統合され、機関誌『左翼藝術』は『戦旗』に吸収された。特に壺井繁治はのちに『戦旗』の編集長になってゆく。ところが、昭和恐慌は銀行にもその牙をむけ、『クラク』を発行していたプラトン社の主力取引銀行であった加島銀行が倒産、廃業するのに伴い1928(昭和3)年5月に雑誌に使う紙を差し押さえられる形でプラトン社は倒産した。竹中英太郎の挿絵が多数掲載された『クラク』の最終号は5月号であった。専属画家を打診されていた竹中はプラトン社からの収入をあてにしていたので、『家の光』の仕事があるとはいえ、とても困ったことだろう。竹中がこの苦境を乗り切るために相談した相手は下落合での隣人であった橋本憲三であった。橋本は平凡社での現代大衆文学全集企画の盟友である作家・白井喬二に相談する。竹中英太郎は現代大衆文学全集にも挿絵を描いていた。白井は紹介状を書いて、横溝正史を訪ねるように言った。当時の横溝は博文館発行の雑誌『新青年』の編集長であった。総編集長格には森下雨村がいるとはいいながら、実質では横溝正史が編集権を握り、編集部員には作家・渡辺温がいた。プラトン社の主力取引銀行である加島銀行の廃業は5月11日なので、この前後でプラトン社の廃業も決まったのであろう。となると、横溝正史を竹中英太郎が訪ねたのはその直後の時期となる。なぜなら雑誌『新青年』7月号には竹中の挿絵がすでに掲載されているからで、白井喬二の紹介状があったとはいえ、その場で採用されたといってもいいスピード感である。7月号への挿絵もおそらくは締切までの時間もなく、編集部で原稿を読んで、その場で描いてみせたのではないにせよ、制作時間はかぎられていたものと想像する。この後の竹中英太郎の活躍はすさまじい。次の挿絵は8月増刊号に掲載された江戸川乱歩の復活長編「陰獣」へのものだった。横溝も自ら勝負だったと言っているように、『新青年』の命運をかけた賭けでもあった。竹中英太郎の挿絵を使った新聞広告が新聞紙面を飾ったし、小説も挿絵も大きな話題になったのであった。

 こうしたその後の竹中英太郎の活躍をみても、下落合の「熊本人村」の存在が大きかったのは明らかである。また、余談ながら戦後に展開される後日譚も面白い。久生十蘭の作品を読むために『新青年』を古書店で買い集めている男がいた。作家にして雑誌編集者であった中井英夫である。中井は代表作となる「虚無への供物」を書いている最中に下落合に転居してきた。しかもその場所は五の坂上。竹中英太郎がデビューした時の借家から徒歩で3分はかからない距離にである。中井は竹中の挿絵画家として最後の作品となる横溝正史の「鬼火」のページ削除箇所が破られていない完全本をたまたま購入してもっていたのであった。これを最終的には横溝に献呈することになったし、竹中とも手紙でやりとりすることになる。そして中井自身は「虚無への供物」を完成させ、下落合で著書『虚無への供物』を手にすることになる。不思議な縁である。従い、『虚無への供物』には下落合界隈を描写したなと思われる文章がときどき顔をのぞかせる。竹中英太郎が「鬼火」のために描いた挿絵原画であるが、ある時期に中井英夫の手元に預けられたことがある。平凡社の『名作挿絵全集』のために「鬼火」の挿絵が掲載されるのであるが、その解説文を中井に書かせるために原画が一時的に預けられたのだった。久生十蘭はパリで佐伯祐三の姪とつきあっていた。それゆえ帰国後も下落合に来ることが多かった。中井は久生が訪れ、見たであろう情景、その面影が残る下落合に住むことで「虚無への供物」を完成させようとしたのだろうか。まさか竹中のデビュー当時の借家があった場所とは知らなかったのだろうと思うが、実に不思議なつながりである。
 橋本憲三と高群逸枝夫妻であるが、橋本憲三は平凡社を辞め、日本の女性史学の創始者となる高群を完全にサポートする体制を作ることになる。アナキストを居候させ、世話を高群まかせにした若き日とは異なり、高群の研究生活を全力で支援したのであった。
 小山勝清は戦前に何冊かの著作を出版。戦後は児童文学分野で活躍、代表作『それからの武蔵』を書いた。1965年に故郷の人吉市に帰って死去している。
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新宿・落合散歩(3) [落合]

第二章:アヴァンギャルド芸術のゆりかご「マヴォ」

 第一章で書いたように大正後期のアヴァンギャルド芸術運動の中心的な存在は前衛芸術家集団マヴォである。マヴォはベルリンから戻った村山知義を中心に未来派美術協会からメンバーが移籍、参加する形で形成された。村山が上落合に帰国する時期、未来派美術協会に所属していた尾形亀之助、柳瀬正夢、大浦周蔵、門脇晋郎は落合に住み始めている。また、その後マヴォに参加するアナキストの岡田龍夫も下落合に住んでいた。機関誌『MAVO』の後半号の編集長となった詩人・萩原恭次郎も下落合の住人となっている。このようにマヴォの主要なメンバーは落合に住んでおり、大正新興藝術運動のスタートを飾ったアヴァンギャルド集団マヴォを育んだのは新宿・落合という地域であった。マヴォは1923(大正12)年7月に前述の5人によって結成された。マヴォはそれまでの絵画中心の美術のあり方を変え、建築や舞台美術、商業美術や舞踊などにその活動の主体を移してゆこうと宣言された。村山はベルリンにおいてノイエ・タンツの影響を受け、自ら新たな美術表現としてパフォーマンスを舞台で見せる方法も採用している。三角のアトリエにおけるパフォーマンスの写真が残されているが、村山自身は上屋敷の自由学園(フランク・ロイド・ライトの設計)に併設されている遠藤新設計の講堂を使ってダンスのトレーニングやリハーサルを行っていたようである。そもそも、村山の母親は婦人之友社の記者であった。村山もベルリン留学前から『コドモノトモ』に童画を提供していた。自由学園の第一期卒業生に岡内籌子がいた。岡内は婦人之友社の記者となり、『コドモノトモ』に童話を書いた。岡内と村山は記者と画家という形で出会い、ひかれあった。やがてふたりは結婚することになり自由学園の羽仁夫妻を仲人にたてて結婚した。婚礼場所は自由学園であった。この自由学園から「マヴォの歌」をうたいながら上落合の三角のアトリエの家までマヴォのメンバーは村山を連れ帰った。この結婚の帰結としてマヴォの解散があった。この章の主題ではないが、村山がボルシェビキ化するのには妻の籌子の存在が絶大であったと思うからだ。籌子は社会主義者でない夫を叱責していた。「社会主義者にならないなら別れる」くらいは平気で宣言していたようだ。マヴォの結成直後から柳瀬正夢によってオルグをかけられていた村山であったが、柳瀬だけでは村山のボルシェビキ化は難しかったと思う。籌子とのダブルパンチに負けて、やがて村山は社会主義者になっていったのだと思う。初期メンバーであった尾形亀之助は美術家としては村山や高見沢、岡田といった過激なマヴォイストにはついていけなかった。尾形は詩人という立ち位置に集中してゆく。マヴォイストたちはロシア・アヴァンギャルドのメンバーたちと同様に建築やデザインにその活動の比重をおいた。関東大震災後の復興時期にバラック建築の装飾を請け負う仕事に精力的に動いた。一方、柳瀬は挿絵や漫画、ポスターデザインなど印刷メデイアに注力してゆく。そして注目すべきもう一つのポイントは印刷美術であった。マヴォの機関誌『MAVO』にはメンバーによるリノカット版画が多数掲載されている。『MAVO』の後半の編集長である萩原恭次郎の詩集『死刑宣告』はロシア・フォルマリズム詩の影響を感じる形態的な詩が収録されたが、挿入された挿絵が素晴らしい。主に岡田龍夫を中心にリノカット版画によって、形態的な言葉と抽象的な画面構成によるコラボレーション世界が構成された、まさに画期的な一冊に仕上がっている。このリノカット版画を印刷物に使うという方法は極めて新しい方法であった。リノカット版画を表現として多用したピカソやマティスよりも早い時期にこの活用ぶりは見事である。作品を提供した村山、柳瀬、岡田などを考えると、リノカット版画活用の発祥の地として落合は記憶されるべきだろう。震災復興ではバラックによる劇場の公演も了解された。これを利用したのが土方与志の築地小劇場である。大阪の雑誌社プラトン社の顧問格であった小山内薫も駆けつけた。ここでも村山や柳瀬は舞台美術や脚本という形で活躍する。マヴォの絵画から飛び出すというコンセプトはどんどん現実化していった。しかし、マヴォの活動期間はみじかかった。中心であった村山自身がマヴォを脱会したのだから無理もない。村山はいつのまにか左傾化し、ボルシェビキになっていたのである。マヴォが実質解散したのは1925(大正14)年のことである。従い、この過激にして先端的であったグループの活動は3年に満たないという短期間のことであった。メンバーはヨーロッパのダダや未来派や構成主義を受容、従来の絵画の概念をうちやぶる活動を行った。とくに高見沢や岡田のパフォーマンスは特異であった。しかし、グループに属したメンバー達を見るとお互いにずいぶんと異質な構成だなと思う。村山は当時はアヴァンギャルドな純粋芸術至上主義だし、柳瀬はすでに社会主義、尾形は言葉の側に傾斜しているし、岡田はアナキスト、高見沢はボルシェビキでマヴォイストだと自称してはいるが、メンバーの中でも特に独自。逆さづりになったパフォーマンスの写真が残っている。『MAVO』の表紙に爆竹を貼り付け、結果その号を発売禁止処分にしたのも高見沢である。何か共通した要素がないかとみたら、面白いことに気が付いた。柳瀬も高見沢もマンガで活躍した。村山と柳瀬は演劇で活躍した。童画では村山と柳瀬が活躍する。挿絵では村山、柳瀬、高見沢が活躍する。装丁では村山、柳瀬、岡田が活躍した。全員がファインアートでは共通なので、それ以外の美術周辺で村山と柳瀬の二人を中心にメンバーは才能を発揮したのだった。村山が社会主義に転向した後、残されたメンバー(特に岡田)でマヴォを継続しようとしたが、実質は村山が脱退した時点で寿命は尽きてしまっていた。

 短命であったマヴォであるが、活動の意味は大きかった。そして日本のアヴァンギャルド芸術に与えた影響は大きかった。ダダイズムの意識をヨーロッパから正統に引き継いだのはマヴォだっただろう。モダニズム文化とプロレタリア文化が昭和初期の文化的前衛となってゆくのだが、そのトリガーはマヴォにあったのだと私は思う。そして、こうした文化の中心的な動きばかりでなく、いわゆるサブカルチャー的なものにも影響を与えていったのがマヴォの特徴ではないかと思うのだ。また、大きかったのは海外のアヴァンギャルド運動と同時的に影響しあっていたことである。マヴォメンバーの活動が同時期の海外のアーティストに即自的に伝達されていたということになる。これは少し後の時期に山中散生や瀧口修造がシュルレアリスム運動と即時的につながっていたことの先例であったのではないかと考える。その中心にはいつも村山知義がいた。小滝橋に近い上落合186番地にあった三角のアトリエは村山の城であった。日本のアヴァンギャルド芸術の起源がマヴォであるならば、アヴァンギャルド芸術の故郷は新宿・落合だといっていいだろう。終戦間近の空襲の際に戸山練兵場を狙った絨毯爆撃によって三角のアトリエも多くの家も消えてしまった。今はその痕跡が残るだけであって、地域の記憶からも消えてしまっている。
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新宿・落合散歩(2) [落合]

第一章:初期の落合住民は画家たち

 落合地域への人の流入に大きな変化が生じたのは関東大震災以後である。落合地域が震災の被害、特に下町地域で甚大な被害となった火災を免れたことから中心部からの避難者が借家をこの地域にも求めたあたりから転入者が増えてくる。初期の落合居住者はこの震災以前の住人であると私なりに整理している。

 1923(大正12)年9月以前に落合を住まいとしていた文化人を見ると画家が多いことに気付く。もちろん、画家ばかりではなく作家の辻潤や小山勝清、歌人の会津八一なども居住していた。画家のうち目立つ初期住人では1916(大正5)年にアトリエを下落合に構えた中村彜がいる。エロシェンコを目白駅でスカウトして中村彜のアトリエまで連れてきた鶴田吾郎、彜の盟友である曾宮一念も下落合に住んでいた。1921(大正10)年5月28日の新聞には「エロシェンコが上落合の辻潤の家に遊びに来た」の記事があり、中村彜作の重要文化財絵画「エロシェンコ氏の像」のなりたちエピソードとあわせて興味深い。中村彜のアトリエは増築や改築はされているものの画家・鈴木誠によって継承され、当時と同じ場所に現存していた。そして現在は、部材などを最大限にいかしながら大正時代の姿に復元、アトリエ記念館として保存されている。

 同じく画家、金山平三が中井二の坂上にアトリエを建設したのは1923(大正12)年。金山は下落合の中井地区をスペインの芸術村、アビラに似ているとして「アビラ村」と呼んだ。そして、日本における芸術村をこの地に作ろうとした。しかしこの構想はほかの画家たちの移住がなく成功しなかった。ただ「芸術村」の名前は伝承したようで、1925(大正14)年にこのアビラ村のすぐ西側に越して来た、詩人の高群逸枝の『火の国の女の日記』には当時の生活の述懐があって「この一帯はそのころようやく新開地めいてきだしたところで「芸術村」という俗称もあった。」の記述がある。金山のアトリエも一昨年までは現存していたが、現在は取り壊されてしまい、何の痕跡も残ってはいない。場所の記憶のみがわれわれに残された。

 パリの町を激しいタッチで描いた佐伯祐三が下落合にアトリエを作ったのは1921(大正10)年のこと。パリに1923(大正12)年に留学するまでと1926(大正15)年に帰国して、ふたたびパリにむかう1927(昭和2)年までの期間にアトリエと併設された母屋に住み、落合風景を中心とした東京の風景を描いている。このアトリエは下落合661番地に母屋とともにあったが、現在はアトリエのみが保存されている。パリで夭逝した佐伯の絵は1930年協会会員であった外山卯三郎の実家に届けられたようであるが、外山の実家は下落合1146番地であった。

 震災後の住民たちが落合を住処にしてゆくにあたり、もっとも求心力をもっていたとおぼしき初期の住人はなんといっても村山知義である。村山が落合にいたためにアヴァンギャルド芸術家たちは落合に集った。またボルシェビキに変ったのちの村山のもとに次第に左翼文化人たちは集まり、かたまって住んだのであった。そのため落合一帯は「落合ソヴィエト」と呼ばれたこともあったそうだ。その求心力をもった村山知義がベルリンに留学に行くのは1922(大正11)年初めのことであるが、その時点ではすでに村山には上落合186番地に母や弟とともに住んだ家があった。ベルリンには哲学を学ぶために留学したのだが、留学してすぐに構成派や未来派の美術、演劇、舞踊等にふれて学業を放棄、美術制作に没頭した。ベルリンではアヴァンギャルド芸術を紹介する画廊に入りびたり、現地で開催された大規模な未来派美術展覧会にも参加している。だがベルリンにはわずか1年の滞在で1923(大正12)年1月には帰国、三角のアトリエを母屋に足している。5月には小滝橋に近い自宅で「村山知義、意識的構成主義的小品展覧会」を開催した。この展覧会には近くに住む未来派美術協会所属の柳瀬正夢、尾形亀之助や大浦周蔵、門脇晋郎などが訪れたが、彼らも落合、あるいは近隣の住人であった。柳瀬の下宿は東中野の住所ではあるが、村山の自宅から徒歩で10分とかからない場所であった。尾形は村山の叔母が落合にもっていた家作を借りていた。村山自身が『演劇的自叙伝2』の中にそう記述している。場所は現在の中井駅の近く、落合第五小学校の南側にあたる場所(上落合742番地)であった。そばには大浦や門脇の住む借家もあったようだ。このメンバーたちで7月はじめに前衛芸術家集団マヴォを結成するのだから、まさに落合はアヴァンギャルド芸術の故郷ともいうべき土地である。尾形亀之助は義兄のすすめで未来派美術協会に属した。東中野に引っ越してきた柳瀬正夢も未来派の会員。二人はともに協会に不満を持っていた。その二人の真ん中にベルリンから最新の構成主義をひっさげて村山知義が帰国したのであった。おそらくは大きな期待をもって村山を迎えたことは想像に難くない。グループ・マヴォは浅草の伝法院で「マヴォ第1回展覧会」を7月末に開催した。そして機関誌『MAVO』を創刊した。雑誌『MAVO』は世界のアヴァンギャルド芸術雑誌(たとえば『デ・シュトゥルム』や『MA』など)と連携、お互いに交換された。

 こうした状況下、1923(大正12)年9月Ⅰ日、関東大震災が発生した。当時の村山はまったくプロレタリア文化に興味がない。総合芸術としての建築の冒険的なテストのチャンスが与えられたと考え、バラック建築の装飾を次々に請け負った。のちに深くかかわることになる築地小劇場を土方与志と小山内薫が立ち上げる。今和次郎のバラック装飾社とも連携した。柳瀬正夢は大山郁夫の家にいて憲兵隊に踏み込まれた。結果、下宿を憲兵隊に襲われ連行されたが、戸山ヶ原の直前に特高警察に引き渡されて淀橋警察署・戸塚分署に留置された。そこでアナキズム作家、平林たい子と知り合うことになる。後に平林とマヴォメンバーの高見沢路直(後の漫画家・田河水泡)とのお見合いを柳瀬夫妻が取り持つことになるのだから、これまた不思議な縁である。中井四の坂上に震災前から住んでいた熊本出身の作家、小山勝清は当日でかけていて検挙を免れた。特高が尾行につくような社会主義者であった小山は危険を感じ、逆に地域の自警団に加わるという選択を行いことなきを得た。落合の住人ではないが、1920(大正9)年に早稲田から落合を通って上高田に越してきたのは日本画家の橋浦泰雄であった。橋浦は鳥取・岩見の出身。鳥取士族の父をもつ大衆小説作家・白井喬二と親しく、弟の関係から有島武郎とも親しかった。民俗学研究においては柳田國男の一番弟子のような存在でもあった。鳥取人脈をもつ橋浦が上高田に下宿を構えたことで、のちに南宋書院をおこす涌島義博が妻の田中古代子とともに上落合に住むことにつながった。橋浦は有島武郎の著作集を出版していた足助素一の叢文閣の編集や本の装丁を担当していたが、震災の地震見舞の際にはじめて叢文閣において大杉榮と偶然に出会う。大杉が憲兵に虐殺される直前のことである。足助と橋浦は大杉の葬儀を取り仕切ったが、それは落合火葬場でのことであった。前述したように落合は震災後に大きく変わる。新築の借家が数多く建てられたのだった。
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新宿・落合散歩(1) [落合]

序章:散歩のはじまり

 私が新宿・落合地域の散歩を始めたきっかけ、それは1995年に杉並区和田から新宿区上落合に越してきたことが一つの契機ではあったが、最後に引き金を引いたのは詩人・未生響さんとの会話であった。その会話とは二人がともにファンである瀧口修造のことについてであった。私が落合に越したことを知った未生さんが「瀧口さんも落合でしたよね」と言われたのだ。「そうでした、気づきませんでした。」そう、私は瀧口さんが西落合の住人であったことを失念していた。ただし、この会話を交わしたときには私が落合に越して来てからすでに10年が経過していた。それから瀧口さんが自宅でつくっていたオリーブのビン詰の話になった(実際につくったのは舞踏家の石井満隆さんらしいが)。二人のこうしたオリーブについての会話は瀧口さんが亡くなったのが1979年であるから、没後26年のことであった。「当時のオリーブの樹はさすがにないでしょうね、お宅のあとにはマンションが建っているのかもしれないですね」などとその後を想像しながら話し合ったのだった。オリーブの実をいただくことはできなくとも、せめてその子孫の木を見たり、その葉の一枚なりを手にいれられないだろうか、と二人で盛り上がったのだった。それはイメージの世界での瀧口邸への訪問であった。しかしその場所への現実的訪問も実現は間近なのであった。私がある古書展で詩の雑誌をみていたら、巻末に詩人たちの住所が掲載されており、そこに瀧口修造の住所もあった。地番変更があるので、古い地図を確認して現在の住所と対照して場所の特定をした。桜にはまだ1週間くらい早い春に妻を伴って徒歩でその場所を訪ねた。少し遠い散歩という感覚の距離であったが、もちろん徒歩での訪問が可能な距離ではあった。近くまでゆくと、行く手には水道塔が異様な姿を見せていた。そして瀧口邸のあとは少し入りくんだ場所にあるため、逆の駐車場からその場所を見たのだった。そこにはオリーブは若木とてなく、かわりに大きな枝垂桜が見事な花を咲かせていた。まるで夢のような情景であった。反対側にまわると私道のような道路があり、そのつきあたりが滝口邸のあった場所であった。近所の方の話も聞かせていただけた。「今も訪問される若い方がいて、きっと瀧口さんは喜んでいると思いますよ。そういう方だったから」と言っていただいた。その言葉がうれしかった。この訪問の経過を短いエッセイにし、デカルコマニーなどを封じ込めた小さな箱の作品にまとめて『幻の橄欖を求めて』と題名をつけた。こうして私の落合散歩は開始されたのだった。

 次の落合散歩であるが、自分なりの感覚に従って言えば、意外に早くその機会はやってきた印象であった。2006年1月末から森美術館で「東京―ベルリン/ベルリン―東京展」が開催されたが、そこにはベルリンに留学していた経緯から村山知義の作品や資料が展示された。会場には資料として村山が中心となって発行した雑誌『MAVO』も展示されていた。その奥付をみて驚いた。なんと「上落合186番地」と印刷されているではないか。しかも今回は同じ町内となる「上落合」が町名なのだ。新宿中央図書館に古い地図を見にゆき、番地を探した。見つけた場所は自宅から歩いて10分ほどの場所であった。さっそく地図を片手に歩いてみた。近くだけれどメインの通り道からは外れているために、今までに歩いたことがない通りだった。しかもその通りはなんとなく戦前の雰囲気を残した場所を通っていた。あとで知るのだが、そこは村山も参加した「全日本無産者藝術聯盟」通称NAPF(ナップ)の本部があった場所であったのだった。狭い路地をたどると早稲田通りに出る手前に村山知義の「三角のアトリエの家」の跡地はあった。目の前には公園があるがそれは移転前の月岡八幡宮の跡地であった。瀧口修造と村山知義という二人のスター(自分なりの)が時代は違うとはいえともに落合に住んでいたことに正直驚き、さらに親しく感じた。そして落合という土地の歴史や住んだ人物たちをたどってみたいと実感したのはこの瞬間であった。
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<<告知>>「女人芸術研究会」のゲストに [落合]

林芙美子・円地文子・佐多稲子――大きく揺れる時代の中で「女人芸術」の作家たちはどのように生きたか。

7月16日にはゲストとして、新宿区落合に暮らした作家・詩人・画家たちを研究なさっている中村恵一さんをお迎えします。

 講師 尾形明子 (当研究所理事)

 毎月第3土曜日 午後2時~
   6月、8月はお休みです。

 会 場 当研究所(JR巣鴨駅下車徒歩5分)
 参加費 800円(会員500円)
  途中からの参加も歓迎。

http://www.gjk-j.com/info.htm
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<<告知>>『本の手帳』10号 「落合に交錯した二人の女流作家とふたりのみどり」 [落合]

『本の手帳』10号に「落合に交錯した二人の女流作家とふたりのみどり」という文章を書きました。大正14年頃の落合に集まった熊本人と鳥取人の関わりについての考察です。尾崎翠、涌島義博、田中古代子、橋浦泰雄、橋浦時雄、高群逸枝、橋本憲三、小山勝清、竹中英太郎が対象です。

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本の手帳社
〒160-0004 新宿区四谷4-24中島第一ビル9C 大貫デザイン事務所気付
電話03-3355-4769 fax03-3225-0957

発行人の大貫伸樹さんのHPとメールアドレス
http://www.asahi-net.or.jp/~md9s-oonk/
md9s-oonk@asahi-net.or,jp

雑誌は一冊1000円+税です。
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