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新宿・落合散歩(13) [落合]

 プロレタリア文化全盛の時期に入ると落合は落合ソヴィエトと呼ばれる時代を迎える。村山籌子と壺井栄の家はすぐ近く。二人に加えて夫が検挙されていた女優の原泉が夫の支援のために落合を闊歩している姿を想像する。おそらくは三人がともに歩けば背後に特高の尾行がついたのではないだろうか。中野重治と妻の原泉の家は現在の月見岡八幡神社のすぐ近くにあった。その一帯はナップ本部がおかれ、プロレタリア作家同盟がおかれた場所だったので、多くの作家たちが住んでいた。壺井栄の住んだ家の近くには国際文化研究所が設置され、こちらにも多くの文化人が出入りした。ナップ(全日本無産者藝術聯盟)とは距離をおいたが、アナーキスト作家として落合に居をすえたのは平林たい子である。平林は山本虎三とともに村山知義の三角のアトリエにリャク(略奪の意味)にいった経歴をもつ。関東大震災の際には社会主義者として夫婦ともに検挙され、淀橋警察署戸塚分署に勾留された。このときに一緒だったのが柳瀬正夢であった。やがて縁があって柳瀬は平林にマヴォメンバーの高見澤路直(のちの漫画家・田河水泡)を紹介する。その実態としては見合いであった。柳瀬の自宅に築地小劇場の役者である丸山定夫と高見澤がよばれ、その場に平林も呼ばれた。柳瀬の妻の梅子が平林に高見澤のことを説明したという。二人は早々に婚約し高見澤の家で同棲を始めたが、結局のところアナーキストの平林とボルシェビキの高見澤とは合わなかったようである。慰謝料を要求された高見澤は、お金はないが男は紹介するという代替案をだし、平林も承諾した。高見澤が紹介したのは、マヴォのメンバーでありアナーキストであった岡田龍夫である。岡田も下落合に住んでおり、高見澤は平林を目白駅から岡田の家まで送っている。詩人・萩原恭次郎の詩集『死刑宣告』の装丁や挿画として使われたリノカット版画に才能を発揮した岡田であったが、平林との生活はうまくいかなかった。何人かの詩人や美術家たちと出かけた千葉の海には壺井繁治や妻の栄もいた。この共同生活もうまくいかず、東京に逃げ帰った。のちに世田谷・三軒茶屋において林芙美子、壺井栄、平林たい子の三人が隣近所に住むことになった時期があるが、落合でもすこし距離はあるが同じ町内に三人が住んでいた。平林も板垣直子の批評の対象になり、厳しく論じられもしたが、それは板垣直子の期待の顕れでもあり、エールでもあったと思われる。
 雑誌『女人藝術』に執筆した、その他の女性作家たちをみておこう。まずは大田洋子である。大田洋子が上落合に住んだのは1931(昭和6)年から1933(昭和8)年頃のこと。545番地の梅田さんのところの借間だったようだ。『女人藝術』に小説を書いたが、広島出身だった大田が作家として有名になったのは、戦後。原爆に関しての作品によってであった。作品集『屍の街』(1948年刊)は特に大田洋子の代表作として有名である。次に秋田出身の矢田津世子である。矢田は秋田に生まれたが、小学低学年のときに飯田橋に引越してくる。のちに日本興銀に勤めるが、生命保険会社に勤務する兄の名古屋転勤に一家は従い、津世子も興銀を辞めて名古屋に移住した。1929(昭和4)年『女人藝術』名古屋支部の設立に津世子も参加、1930(昭和5)年には小説「反逆」を執筆、『女人藝術』に掲載された。また、『文学時代』の懸賞小説に「罠を跳び越える女」を応募、入選した。1931(昭和6)年に単身上京も、翌年には兄が東京転勤となって下落合に一家で暮らすことになった。下落合1986番地でのこと。山手通りと新目白通りの交差点に近い場所である。1944(昭和19)年3月に亡くなるまでの期間、矢田津世子はこの地に住んだ。坂口安吾の恋人であった時期もあった。1936(昭和11)年3月に発表した小説「神楽坂」が第三回芥川賞の候補となり、12月に改造社から『神楽坂』は出版された。戦後も健在ならば、また違った作品を残したのではないかと考えると残念である。宮本百合子は上落合740番地に1934(昭和9)年11月から1937(昭和12)年1月まで暮らした。夫の顕治が獄中にあった時期にあたる。宮本百合子にとっても自由な活動が許されず、厳しい時期であったろう。これ以前は事実婚であった二人であったが、面会や差し入れなどの都合から戸籍上も夫婦になった方が良いとの判断があったようだ。百合子と親しかった湯浅芳子が地下に潜ったのち、資金援助を湯浅に行ったという嫌疑で、矢田津世子は取り調べを受けている。1928(昭和3)年の衆議院議員選挙において普通選挙法に基づく選挙を行った。しかし、それは25歳以上の男子に限っていた。それでも思想的弾圧を伴っての選挙であったのだ。普通選挙といいながら、女性には参政権はなかった。女性が参政権を得たのは何と戦後になってから。1946(昭和21)年にはじめて女性議員が誕生した。『青鞜』(1911年創刊)で始まった女性の闘いは参政権獲得でいえば34年もかかってしまった。1920-30年代、落合は女性作家たちにとっても重要な土地であった。しかし、大きな戦争に傾斜してゆく中、自由な表現を制限される厳しい状況のなかでの活動でもあった。
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新宿・落合散歩(12) [落合]

 吉屋信子と尾崎翠はともに投稿雑誌の常連の二人。さきに吉屋信子が下落合の高台の上に居を構えた(下落合2108番地)。1926(大正15)年のことである。尾崎が上落合850番地に越してくるのは1927(昭和2)年のはじめのころ。親友の松下文子とともに住んだ。尾崎が上落合での生活の前半時期に書いた文章の多くは『女人藝術』に掲載されているが、松下文子もまた『女人藝術』に執筆している。尾崎が上落合に居を構える契機をつくったのは同郷の涌島義博と田中古代子夫妻の存在。ふたりは少なくとも1926(大正15)年に上落合546番地に住んでいる。これは『鳥取無産県人会報』に記載された会員名簿によって確かめることができる。尾崎と涌島夫妻は鳥取において同人誌『水脈』での同人仲間。涌島は同じく同郷の先輩である橋浦泰雄とともに足助素一の叢文閣で本作りを学び、独立して南宋書院をおこす。この南宋書院から林芙美子の第一詩集『蒼馬を見たり』は出版された(1930年)のだが、松下文子の資金提供によって実現された。妻の古代子は1921(大正10)年に大阪朝日新聞の懸賞小説に「諦観」を応募、二等入選を果たしている。1924(大正13)年に上京、大阪朝日新聞に「煙草」を連載するなどした作家。1932(昭和7)年に鳥取に帰るので、尾崎とほぼ同じタイミングで東京に来、鳥取に帰ったことになる。これも運命だろうか。この上落合の妙正寺川のほとりにあった尾崎と松下同居の850番地の家によく遊びに来ていたのが杉並妙法寺そばに手塚緑敏と住んでいた林芙美子であり、林は『女人藝術』第2号に詩「黍畑」を書いている。そして第3号には「秋が来たんだ」を執筆、第4号からはそれが連載されることとなり、「放浪記」にまとまっていった。尾崎が松下と暮らした最初の借家を出て近くの大工の家(842番地)の2階に越したあと、林芙美子が1930(昭和5)年初夏に850番地に越してくる。この借家に住んだのちに改造社の新鋭文学叢書の一冊として『放浪記』は刊行された。このシリーズはモダニスム文学とプロレタリア文学の先鋭作家を網羅、表紙を画家の古賀春江が描いている。すばらしくモダンな造本である。ちなみに改造社のこの叢書の編集者は作家・大田洋子の元夫であって、労働争議にかかわり解雇されたのちは、下落合の早くからの住人でもある画家の金山平三のアトリエでダンスを教えていたらしい。このアトリエは東北大震災前までは中井二の坂上に健在であったが、今は取り壊されてしまった。吉屋信子の家は五の坂上にあった。今でもそこに立つと新宿の高層ビル群がすべて見渡せる素晴らしいロケーションだ。当時も新宿淀橋あたりが一望できたのだろう。その吉屋信子の下落合の家には上落合に住む村山籌子が軍に拠出するために育てた犬を売りにいっていたようで、長男の亜土のエッセイにはそのときの様子が記述されている。吉屋が犬を連れて散歩する姿は目白文化村界隈で頻繁に目撃されているので、犬好きであったようだ。この吉屋の家の少し北側に1925(大正14)年には高群逸枝が夫の橋本憲三とともに越してくる。東中野からの転居であったが、この借家を探したのは同郷の作家、小山勝清であった。この時期、小山のところには歌人で映画脚本家の美濃部長行や挿絵画家である竹中英太郎が居候していたか隣人としてこの地域に住んでいた。高群の家は小山の自宅のすぐそばであって引っ越した当初の隣家には複数の詩人たちが共同で暮らしており、そのなかに春山行夫もいたと高群が書いている。名古屋のサン・サシオンのメンバーであった春山は、メンバーの中心的な存在である松下春雄や鬼頭鍋三郎などを頼って震災後に上京してきていた。春山は次の家でも同郷メンバーによる共同生活を行い、下落合での新たな借間には松下春雄も同居した。高群は『火の国の女の日記』(一九六六年 理論社)に下落合在住当時の生活の様子を描いている。この時期は下落合の家に安定した時期にあたる。高群の日記を引用しよう。
          
二人の再出発の家は下落合の高台の一郭、椎名町から目白方面にゆく街道筋にある長屋群の一つだった。この家も同郷の小山さんがみつけてくれたもので小山さんの近所だった。近くには森や畑が多く、私がよく鶏卵を買いにいった百姓家もあった。この一帯はそのころようやく新開地めいてきだしたところで、「芸術村」という俗称もあった。
この家ではもはや訪問客はかたく排除された。球磨の四浦出身の小山たまえ夫人だけがときどき長女の美いちゃんを連れて故郷の話をしにやってくるぐらいだった。
彼を、夕方ごちそうをつくっておいて、植木畑を抜けて古屋さんという学者さんの洋館の横で待っていると、彼が中井の田圃を通って下落合への坂道をのぼってくるのがうれしかった。下落合の日日は幸福だった。 (『火の国の女の日記』四二 「下落合界隈」より抜粋)

「古屋さんという学者さんの洋館」はつい最近まで中井・五の坂の途中にあった。だが、取り壊されて今はない。古屋さんとは医学者の古屋芳雄。『レンブラント』の翻訳者であり、白樺派の作家でもある。古屋の肖像は岸田劉生が描いており、「草持てる男の像」と題されて東京国立近代美術館に収蔵されている。「芸術村」という俗称であるが、金山平三が「アビラ村」と呼び、芸術家村として開発しようと構想した名残なのだろう。高群は詩集『日月の上に』(1921年 叢文閣)を生田長江に評価されて世に出ていた。アナーキスト新進詩人として出発した高群であったが、下落合にあった時期、詩人は女性問題研究家へと次第にその貌を変えていった。『戀愛創生』はそうした時期に書かれた高群の著作である。萬世閣より1926(大正15)年に刊行されている。1926(大正15)年11月、橋本憲三と高群逸枝夫妻は下落合の高台をくだり、上沼袋に転居した。東京熊本県人村の住人であった小山勝清も竹中英太郎も1928(昭和3)年頃までには下落合から転居してしまう。1927(昭和2)年に越してきて以来、上落合の妙正寺川近くに居を構えたのは尾崎翠であった。その尾崎を慕って上落合に転居してきた林芙美子が売れるようになってからも、もっと交通の便利な場所への転居を編集はじめとする周囲から勧められながらも結局は落合を離れなかったのは、彼女のエッセイ「落合町山川記」にあるように妙正寺川を見て、故郷の山河を思い出すことができたからではないかと思う。居心地がよかったのだろう。このことは尾崎翠も同様であったのではなかったかと私は感じている。尾崎の故郷、岩井温泉を貫く蒲生川を思い出させる妙正寺川のそばを離れたくなかったのではないだろうか。上落合850番地で同居した松下文子が結婚によって転居した際にも、尾崎はすぐそばの貸間に転居するのである。この家の南には庭があり、その先は小川が流れていた。そして小川の先の空地には桐や桃が林をなしていたのであった。高群の日記のように下落合の高台には植木畑がひろがっていた。一帯は木々の緑と多くの川や水路が美しい景色をなしていた。そうした故郷にも似た風景の中、尾崎翠や林芙美子は素晴らしい小説を書き上げた。林はその後、五の坂途中にあった下落合の洋館に越した。尾崎は上落合に残り、「映画漫想」を書いてゆく。映画にまつわる感想を綴ったエッセイは時に詩文のような輝きを見せる。尾崎は新宿武蔵野館にゆき洋画を見、上落合の映画館「公楽キネマ」にいって邦画を見ていた。大家である大工の奥さんが阪東妻三郎の大ファンであったので、二人してバンツマの映画を見にいっていたようである。林芙美子の日記にも公楽キネマに尾崎翠と映画を見にゆき、帰りに板垣直子のところによって夜遅くまで三人で話し込んだとの記述があった。尾崎の小説「第七官界彷徨」全文が板垣鷹穂が編集主幹をつとめる雑誌『新興藝術研究』第二輯に掲載された直後のことであった。公楽キネマで映画を見るという点では、村山籌子が獄中の夫・知義へ出した手紙の中に「山内さん(山内光=岡田桑三のこと)と一緒に公楽キネマに映画(傾向映画である「斬人斬馬剣」)を見に行った」との記述がある。尾崎翠の主要な作品「第七官界彷徨」も「歩行」も「こほろぎ嬢」も「地下室アントンの一夜」も上落合で書かれた。従い、実際に歩いてみると周囲の様子を特定できない形ではあるが、描写していることがよくわかる。児童文学作家・樺山千代は尾崎と親しくつきあい、詩人生田春月は上落合に住む尾崎・樺山のところにときに遊びにきていたようだ。樺山の家は尾崎の下宿から南に坂を登ったところにあり、板垣直子の家に近かった。二人は樺山の家のそばにあった帝国湯に一緒に行ったりもするなど大の仲良しであった。
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新宿・落合散歩(11) [落合]

第八章:女性作家たちの落合

 女性作家が自覚をもって本格的に台頭してきたのは大正末期から昭和初期にかけての時期であったと考える。もちろん雑誌『青鞜』の存在は大きく、女性解放運動の先鞭をつける先進的な動きであった。平塚雷鳥や与謝野晶子、神近市子、そして伊藤野枝。このうち、落合に実際に住んだことがあるのは神近市子である。一方、昭和に入ってから創刊された『女人藝術』は自覚をもって文学と向き合おうとしはじめた女性作家たちの活動の場として重要な位置を占めた。そもそも『女人藝術』は作家にして戯曲家である長谷川時雨がその夫・三上於菟吉から平凡社の円本企画「現代大衆文学全集」の印税をプレゼントされて始めた雑誌であった。この円本企画、推進したのは社長の下中彌三郎と社員の橋本憲三であるが、下中も一時目白文化村近くに住んでいたし、橋本は妻の高群逸枝とともに1926(大正15)年に下落合に住んでいた。落合住人でもある平凡社の二人が推進した全集に取り上げられ、その印税が入った三上は妻の時雨に指輪でも買ってやろうと思ったらしい。だが、時雨は指輪はいらないから、雑誌の資金として提供してほしいと希望した。これが雑誌『女人藝術』の創刊につながるのだから面白い。1928(昭和3)年、おりしも日本は金融恐慌のさなかにあり、この年の5月、メインバンクである加島銀行倒産の影響をうけてプラトン社は倒産している。プラトン社の発行していた雑誌『女性』は終刊していた。そのような難しい時期に『女人藝術』は創刊されたのだ。時雨は後進に発表の場を開き婦人の解放を進めるため、女性が書いて編集し、デザインして出版する商業雑誌として『女人藝術』を企画した。創刊号は1928(昭和3)年7月に発行された。創刊時の発行人は長谷川時雨、編集人は素川絹子、印刷人は生田花世がつとめた。発行所である女人藝術社は牛込区左内町の時雨の自宅においた。『女人藝術』自体が落合で編集されたり、発行されたりすることはなかったが、参加した女性作家たちの多くが落合に住んでいた。思いつくままに列記してみよう。吉屋信子、村山籌子、林芙美子、尾崎翠、神近市子、高群逸枝、宮本百合子、真杉静江、窪川稲子、平林たい子、矢田津世子、大田洋子など。これらの作家のところへ頻繁に別の女性作家が訪問していたというから、落合はこの時期、女性作家たちのコロニーのような土地であったといえるかもしれない。宇野千代、戸田豊子、中本たか子などは落合地域に頻繁に出入りしていたようだ。これら作家のほかにも文藝評論家、板垣直子がいる。板垣直子は美術評論家、板垣鷹穂の妻。1933(昭和8)年に東京啓松堂から刊行された『文藝ノート』には多くの女性作家を取り上げ独自の視点で論じている。誉めるというよりも辛辣に批判している筆致こそ板垣直子らしく魅力的である。この東京啓松堂であるが、女性作家たちの著作をシリーズとして刊行しており、平林たい子の『花子の結婚其の他』、林芙美子『わたしの落書』、尾崎翠『第七官界彷徨』、城夏子『白い貝殻』など錚々たるメンバー、作品がそろっているが、これはあきらかに板垣直子のセレクトである。このシリーズは雑誌『火の鳥』に執筆した女性作家たちの作品集という形で出版されている。雑誌『火の鳥』を創刊した竹島きみ子(渡辺とめ子)は佐佐木信綱の『心の花』に所属する歌人であった。そして未亡人となった竹島に雑誌創刊を勧め資金の援助をしたのは、やはり『心の花』の歌人である片山廣子であった。『火の鳥』は1928(昭和3)年10月の創刊である。まさに同年7月に『女人藝術』が創刊されたが、その直後の創刊であった。菊判60ページの体裁、創刊号には窪川いね子、やはり『心の花』所属の五島美代子、林政江、小金井素子らが寄稿している。当時の『心の花』の代表女流歌人は下落合との関係がある。九條武子である。女性作家たちが落合地域に住むようになる時期は画家たちと同様、震災後の時期からであるが、震災直後に九條武子は下落合に越してきた。落合ではなく上屋敷(南池袋)であるが、下落合の九條武子の邸宅からそれほど遠くはない場所に親友の柳原白蓮が住んだので、これを追いかけてきたような印象すらある。1927(昭和2)年夏、九條武子は歌集『無憂華』を出版、その出版記念会が開催される。この記念会の発起人に渡辺とめ子は名前を連らねている。そして、片山廣子も出席している。片山廣子であるが、1878年2月10日、東京麻布生まれ。東洋英和を卒業、すぐに『心の花』に所属している。1916(大正5)年には竹柏会出版部から第一歌集『翡翠』(かわせみ)を刊行している。『翡翠』は歌集として秀逸である。
 NHKの朝の連続ドラマで「花子とアン」が放映され、柳原白蓮(宮崎白蓮)にばかり脚光があたったが、松村みね子の翻訳ネームでアイルランド文学を翻訳した片山廣子の存在は大きく、村岡花子にとても大きな影響を与えた。村岡が大森に居を構えたのは片山の家があったからだという。片山廣子の子息は村山知義と小学校の同級生。なにかと人脈はつながっている。ちなみに林芙美子の有名な色紙「花の命は短くて 苦しきことのみ多かりき」の詩文はその全文が不明であったが、村岡花子にあてた林芙美子の手紙のなかに12行の詩文が書かれていたのが最近になって発見された。歌人ということであれば中原綾子がやはり下落合に住んだ。中原は与謝野晶子の門人である。
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