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新宿・落合散歩(10) [落合]

 これほどまでにプロレタリア文化関係者が集まり住んだ例はさすがに上落合以外にはないのではないかと考える。この時期の落合が「落合ソヴィエト」と呼ばれる所以である。日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)のほか、全日本無産者藝術聯盟傘下の文化組織は日本プロレタリア劇場同盟(プロット)、日本プロレタリア映画同盟(プロキノ)、日本プロレタリア美術家同盟(ヤップ)、日本プロレタリア音楽同盟(PM)、日本プロレタリア写真家同盟(プロフォト)があった。上落合の場合、作家同盟に属する作家が多いが、プロットメンバーもプロキノやヤップメンバーも居住していた。
 村山知義と籌子が三角のアトリエにおいて共同制作したアニメ映画「三匹の小熊さん」の製作は婦人之友会、監督はプロキノ出身の岩崎昶、撮影もプロキノ出身の並木晋作であった。子供向けの技術的には稚拙なアニメではあるが、内容も作画もとても面白い。もともとは雑誌『子供之友』1924年から28年にかけて掲載されたもので、籌子が話を書き、知義が絵を描いたもの。アニメ映画は婦人之友社の会員(婦人之友会)向けの文化祭のようなイベントの際に上映されたようである。この事例でみるとおり、プロレタリア文化とくくってはいても、表現様式は多彩であり、ロシア革命の初期の段階でロシア・アヴァンギャルドの構成主義的な前衛表現が革命のプロパガンダに活用されたように、プロレタリア文化においてもアヴァンギャルドな表現要素や前衛的な表現内容も内包していたといえる。もちろん「三匹の小熊さん」はそうした前衛表現からは遠いが、子供向けのアニメをプロキノの二人がフィルム化を担当し、ナルプやプロットの二人が物語を構成するという興味深いスタッフ組になっている。監督を勤めた岩崎は映画評論の分野で後に大活躍をすることになる。

 プロレタリア文化は現在考える以上に前衛的で刺激的な表現であったのだろう、当時の新鋭文学叢書(改造社)のラインナップの約半数はプロレタリア文学が占めている。小林多喜二、中本たか子、平林たい子、黒島傳治、武田麟太郎、林房雄、中野重治、窪川いね子、岩藤雪夫、鹿地亘、岡田禎子、貴司山治、芹澤光治良、立野信之、徳永直、片岡鐡平、橋本英吉がとりあげられている。当時のモダニズム文学とともに新鋭、前衛としての位置をしめていたのであった。演劇でも映画でも美術でも同様で、演劇においては築地小劇場など、映画においては傾向映画的な表現などが現れてくる。籌子は公楽キネマにおいて「斬人斬馬剣」という傾向映画の代表作を見て、しかしやや批判的に批評した手紙を獄中の知義に送っている。

 1930(昭和5)年の弾圧において、検挙された作家や演劇人の容疑は資金提供であった。しかし、その後の弾圧や検挙は直接に治安維持法違反の嫌疑によっており、当然のごとく取り調べは苛烈を極めてゆく。作家同盟所属の作家たちもその対象になっていったが、1930年に難を逃れた蔵原ものちに逮捕、拘留された。柳瀬正夢は1931(昭和6)年のアサヒグラフに馬になって娘を背中にのせて笑顔で写真に写っていたが、その同じ年には検挙されてしまう。山田清三郎のあとを受けて『戦旗』の編集長になった壺井繁治も検挙されるに及び、作家たちの対応はあきらかに分裂を始める。林房雄のように獄中転向を表明するもの、柳瀬正夢のように転向表明はしないが、公式な活動は行わないことを条件に釈放されるもの、小林多喜二のように転向をせず地下に潜って活動を続けることを決意し、共産党に入党するものなどに分かれていった。蔵原惟人や小林多喜二は地下に潜伏し活動を継続することを決意、特別高等警察の執拗な追及をかわしていった。周囲もその逃亡に協力し、たとえば籌子は自分の口からいったことは一度もないが多喜二への連絡役として多喜二を支えた。籌子は『少年戦旗』の編集などを仕事にしながら夫の帰りを待ちながらという状況であったが、危険な連絡役も行うなど社会主義運動をかげで支えた一人であった。おそらく、特高警察にしてみれば、常に追い続け、自由が次第になくなって追いつめられているはずの小林多喜二が、そのような状況にあっても雑誌に文章を新たに書き、掲載してゆく事実に耐えられなかったであろう。多喜二は地下に潜ってからも書き続けていた。その執念は鬼気迫るものがある。

 上落合に住んだ評論家・板垣鷹穂が編集主幹をしていた雑誌『新興藝術研究』第1輯はプロレタリア文学の特集号であったし、尾崎翠の「第七官界彷徨」が掲載された第2輯には「壁小説と「短い」短篇小説」という小林多喜二の文章が掲載されている。この雑誌の発行は1931(昭和6)年6月である。おそらく、この時期の上落合は夫たちが警察にひっぱれてしまい、その留守宅を守りながら同盟員の帰還への活動を続ける妻たちの姿が見られたことだろう。村山籌子、壺井栄、中野重治の妻である女優の原泉、後に宮本百合子もそれに加わる。落合は震災の被害が少なかったために郊外住宅地として開発が進み、多くの文化人たちも集まり住むようになった場所であるが、震災を契機に成立した治安維持法によって住民でもある作家や文化人たちが追いつめられてゆくという結果につながった。背景には日本という国家の植民地政策と欧米諸国との対立、それに伴う戦時国家体制への変化がある。まさに1931(昭和6)9月、満州事変が勃発する。満州事変は軍事的には一見大成功を短期間に手中にしたようにみえ、独断実行した陸軍の発言力が強まり、その後の日本の針路を狂わせてしまう。日本は中国北部の権益を守るためのきわめて厳しい外交交渉を結果として放棄、一気に戦時体制にころがり落ちていった。結果は悲惨な敗戦と多くの戦死者、それ以上の市民の犠牲者の数であった。まさに戦時体制に向かう道筋に上落合を中心にしたプロレタリア藝術家たちは巻き込まれてしまったのだった。最終的に時代の転換点を示す事件は、小林多喜二によってもたらされた。落合の住人ではないが、小林多喜二のこの時期を見てみよう。「蟹工船」を書いたのは1929(昭和4)年。1930(昭和5)年春には東京に転居している。5月中旬から関西に講演にゆき、大阪で検挙。6月にいったん保釈、出獄するが立野信之宅にて再逮捕、治安維持法違反の容疑で豊多摩刑務所に収監された。1931(昭和6)年1月下旬に保釈、出獄。10月に非合法の共産党に入党している。まさに満州事変勃発直後のことである。これは、戦時体制の整備と無関係ではない。対中国侵略戦争を行うと同時に国内においては労働運動、左翼思想家、社会主義的な考え方、つまり戦争反対の声をたたきつぶしておく必要があったのだ。この目的に天下の悪法といわれた治安維持法は使われていった。多喜二の例をみていただきたい。小樽では彼は北海道拓殖銀行の銀行員であった。仕事をしながら文章を書き、活動を行いという二足のわらじをはく状態。拓銀を解雇され上京してからは、作家同盟の書記長となり、講演に関西にいっている間に検挙され、ほとんど普通の生活をしないまま地下に潜伏することになってしまっている。本格的に地下に潜ったのは1932(昭和7)年のことであるが、非合法の共産党入党の時点で地下潜伏に近い状態であったものと思われる。多喜二のすごいのはこうした経験も作品にしてしまうことで、地下潜伏の経験をもとに8月には『党生活者』を執筆した。これも特高警察には許せなかっただろう。まるであざ笑われたと感じただろう。多喜二が検挙されたのは1933(昭和8)年2月20日。赤坂で検束され築地署に連行され拷問されたすえ、19時45分に築地署裏の前田病院において死亡が確認された。
 多喜二死亡は獄中の村山知義にもしらされた。それは籌子によってである。村山亜土の『母と歩く時』の「小林多喜二」の一節を引用したい。

前年四月、父は治安維持法違反ということで投獄されていたのだ。長髪の父しか知らない私が、別人だと思って、一瞬、ポカーンと見上げていると、母が「お父さんよ」と背中を押した。私は戸惑い、「えーっと、これ」と、オーバーのポケットに持っていたキャラメルを差し出した。父の顔が困ったように笑った。すると、看守が立ち上がり、「だめだ、だめだ!」と手を振った。私が立ちすくむと、母が私をうしろ抱きにして、ハンドバックを私の胸に押しあてて、じっと静止した。そのイギリス製のハンドバックは、母が自由学園の学生の頃からのもので、やわらかい黒皮、縦二十センチ、横三十センチほどであった。それを見て、父の目がカッと大きくなり、宙を泳ぎ、暗く沈んだ。母はわざと、本や、下着や、弁当の差し入れについて早口に話していたが、ハンドバックには白墨でこう書いてあったという。「タキジコロサレタ」。

戦時体制への急激な落下、その過程においてプロレタリア文化は圧殺された。のみならず「自由な表現」そのものが圧殺されたのであった。

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