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たいせつな風景・S市点描「一度だけの赤いシャツ」(4) [小説]

 Satoshiと僕が天狗岳に向かったのは翌週末のことだった。きちんとテントや炊飯道具、食器、寝袋など登山用の必需品を備えて出かけた。二人だけですべての装備を持つので普段にくらべてザックが大きく重くなったが、テントから山頂にいって同じルートを降りて来る予定なのでテントを張ったままにできる。つまり山頂へは必要最低限の装備で行くことができると考えたのであった。S市のバスターミナルからバスに乗った。南西の温泉街に行くバスであった。日頃は夜更かしのSatoshiも僕もさすがに山登りを計画している時には体調に気をつける。前夜はきちんと早寝をするのだ。僕もいつもよりも3時間は早寝をした。また、いつもはモノトーンの服装をするSatoshiが今日は赤のシャツを着ていた。山登りの時は万が一ということがあり得るから目立つかっこうをする癖がついたんだろうな、と彼は笑った。僕もザックは赤だったし、シャツもかなりはでなチェック柄だった。もちろんウール100%である。ズボンはグレーのものであったが、こちらもウール。下着もウールを着ていた。春山に登るので完全装備というわけであった。
バスはS市を南北に貫く通りを南に走り、オリンピックのスケート会場になった地域を抜けて山間の道に入った。S市を流れている大きな川の上流にそって道は伸びていた。川の流れをさかのぼるようにして標高をあげてゆくのだった。温泉街に至る直前の林道の入り口でバスをおりた。Satoshiは大きな伸びをするとザックを担いだ。「さあ、歩くとしますか」と振り返った。軽くうなずくと林道に入った。天狗岳の入口までは林道を歩いた。登山道の入口は吊橋があったのだが、今はそれが壊れて痕跡だけがあった。それが登山道の入口の目印になっていた。まだ冷たい水であり、雪融けの激しい水流ではあったが、ザイルをむすんで渡渉した。何とか無事だった。二人ともに経験者なのでよかった。対岸にあがると森への入口になっていた。そこから先は大きなドイツトウヒの森になっていた。風にトウヒの幹が揺すられると独特の音がした。まるで船がきしむような音がするのだ。しばらく耳を澄まして森の声を聞いた。トウヒはかなり高くまで茂っていた。その先には小さな青空が見える。下草はほとんどなかった。光がベールのように差してきて、幻想的な光の風景が広がっていた。登り道になる直前でテントが張れる平坦地まで歩いた。そこはまた違った光景がひろがっていた。小さな沢があって水の確保が可能な場所の向うにはドイツトウヒが少しまばらになっている場所があってピンクの可憐な花が一面に咲いていたのだ。それはカタクリなのだった。これほどの量のカタクリの群生を見たのは初めてだった。美しかった。Satoshiも茫然としていた。「きれいだな」と絶句した。僕も全く同感だった。カタクリは食べることができる。少しだけ花と葉をいただいて夕食に添えることにした。この群生はあまり人の目に触れたことがないのかも知れないと思った。登山口の入口の吊橋が壊れてしまっていたし、夏はともかくも少しシーズンに早いこの時期に入山する者は少なかったのかもしれない。この環境でカタクリの満開にあてるのは難しく、ごく稀なことであったのかもしれなかった。だから、天狗岳にカタクリの群生があるとのうわさを聞いたことがなかったのかもしれない。ふたりはカタクリの花の香りに包まれて眠った。翌日も快晴で、残雪を踏んで険しい岩峰に登頂した。帰りは雪の壁をすべって下った。僕が持っている写真の中にはガッツポーズをとったSatoshiの姿がある。彼の赤いシャツが青空に映えていた。

 その夏、S市からみて東方向にあたる炭鉱の町で大きな事故がおこった。登山サークルの先輩が就職した鉱山だったので心配したが、その先輩は無事だった。しかし、悲劇はSatoshiの身に振りかかってきていた。Satoshiの父は炭絋夫としてその鉱山で働いており、事故の日も坑道の中にいたのだった。最初は大学の学友の父兄が事故に巻き込まれたというニュースをきいた。皆、顔色を変えて帰郷していった。まさかその事故にSatoshiの父親が巻き込まれていようとは思っていなかったので、Satoshiの不在を事故と関係づけて考えはしなかった。Satoshiは母親からの連絡を受けてすぐに生まれ故郷である炭絋の町に帰ったのだった。結局、Satoshiの父親を含んだ多くの炭鉱夫が命を落とした。それが契機となってこの炭鉱は閉山を決めた。落ち着けばSatoshiはS市に帰ってくるものと僕は思っていたのだが、雪が降り始めても彼は帰ってこなかった。帰ってくることができなかったというのが本当だったのだろう。寝雪には決してならないが、牡丹雪が降り始めた晩秋の夜、真鍮のノブを回して赤い扉を引いた。だけど、そこにSatoshiはいなかった。白い十字架もなく、黒い十字の形をした激しいタッチのドローイングがそこにはあった。それはスペインのアントニ・タピエスの作品だった。Satoshiのモノトーンの服装を想った。

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たいせつな風景・S市点描「一度だけの赤いシャツ」(3) [小説]

 Satoshiの個展はそれから2週間、時計台のそばの画廊で開催された。僕も何度か顔を出してSatoshiと一緒に十字架を動かしては構成を変化させ、それを写真に撮影した。個展の間のSatoshiも変わらずモノトーンの服装をしていた。「出来上がったよ」と渡された個展会場の写真もモノクロだった。Satoshiの手焼きのプリントであった。彼の個展の2週間は雪融けの時期にあたり、S市の中心地である個展会場のまわりは次第に雪が消えていった。それとともに町の色も蘇ってくるように感じた。花が咲き始めるのも間近に迫っていた。
 Satoshiからの呼び出しがあって時計台の裏にあるモノトーンの喫茶店で会ったのは桜が咲き始めた夜だった。Satoshiは一番奥にあるカウンターにいた。コーヒーのお湯割りを頼むとSatoshiは用件を話し始めた。

「個展も終わったからさ、都合がつけばどこかの山に登らないか」という誘いだった。
春になったとはいえ、標高の高い山は残雪が深い。二人で相談してS市の南西にある天狗岳という山に決めた。まずは標高の割に峻峰であること、登山道が荒れてしまったままなので登山者も少ないだろうという点で選んだ。また下から望んでも、すがたかたちのよい山容である点でも選んだ。つまり登って良いだろうが、見ても良い頂というわけである。さすがに日帰りは無理なのでドイツトウヒの森になっているという麓にテントを張って一泊することにした。久しぶりにカウンターに座ったのでマスターに話がつつぬけに聞こえ、
「山に行くのかい。いいんだろうなあ、二人だけでかい。」と聞かれた。
「たぶん素晴らしいよ。上は雪が深いかもしれないけれど、下はもう雪がないだろうし、花の山とも言われているからね」とSatoshiが答えた。

僕は「マスター、お湯割りをもう一杯ください」とおかわりした。Satoshiはクロワッサンとザクロサラダ注文した。
「個展の白い十字架の構成はよかったね。なんだか自由に動かしていると自分が造形しているような気持ちになれたよ。」
「うん、ありがとう。楽しんでもらえたのが一番うれしいよ。」

時計台が時刻を知らせる鐘をならした。心地よい夜だった。

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たいせつな風景・S市点描「一度だけの赤いシャツ」(2) [小説]

 冬の間、登山には行かなかったが、それによって自由になる時間が大幅に増えたわけではなかった。東京から歌人が来てそのアテンドをしたり、学業があったり、映画に行ったり、本を読んだりと僕なりに忙しく過ごした。もちろん大学の仲間との飲み会にも参加したし麻雀もやった。雪は降り積もり、降り積もりして見たこともない高さの壁となっていった。しかし3月ともなれば日足が伸びて、あいかわらず雪は降ってくるが、春の気配も確実に感じられるのだった。Satoshiからは時々電話があった。画廊ですれ違うことや喫茶店で出会うこともあった。彼の頭の中は次に開催する個展のアイディアで占められていたようで、それを僕がどう感じるかと聞いてくることが多かった。十字架の形をした大きな白いオブジェを部屋に構成、それを観客に自由に動かしてもらい、観客も作品構成に直接参加してもらおうというアイディアだった。

「面白いんじゃないか」と告げるとうれしそうに笑った。
「じゃあ、手伝ってくれるよね」と言われると断れなかった。

町の中心からみると西側にある彼のアトリエというか作業場に通って作品制作を手伝った。彼のアトリエも色彩的にはモノトーンだった。それに、この日もSatoshiはモノトーンな服装だった。僕が着て行ったエメラルドグリーンのセーターが部屋の中では浮いてしまい、全く場違いな空気を醸し出していた。しかし彼はそんなことは全く気にしていないようだった。合成材を電動ノコギリで切断、それを箱状に組み上げて形に作ってゆく。それを組み合わせて十字架を作るのだが、僕は彼の指示通りに組み上げていった。それが終わると十字架を白いペンキで塗る作業を手伝った。Satoshiのアトリエの窓にぶらさがっている大きな氷柱は、通っているうちに日中の強い日差しに溶けだしてきていた。水の落ちる音が雨の時とは全く異なる音で、そしてリズミカルに聞こえていた。それは春の足音であるとも考えられた。

 僕たちは何日もかけて白いモノトーンの大きな十字架をいくつも仕上げてゆき、その間に一緒にご飯を食べ、ラーメンをすすった。何杯もコーヒーを飲んだ。最後の十字架の作成作業は会場への搬入の前夜になり、深夜までかかって白く塗りあげたのだった。僕はそのままソファで横になって寝た。短い眠りの中で空を飛ぶ夢を見ていた。だが夢はモノクロだった。空は青く感じるのだが、実際の映像ではグレーだった。昔、白黒テレビを見たり、モノクロの映画をみたりしても空の青さを実感できたが、そんな感じだった。空を飛んでいる僕は誰かと手をつないでいたが、それが誰なのかはわからなかった。手は女性の手であった。いくつもの分厚い雲を飛び抜けると眼下に大きな町がみえた。そこで急降下してしまい教会の尖塔にぶつかりそうになったが、つないでいた女性の手が強く僕のことを引き上げてくれ、かろうじて衝突を免れた。ジェットコースターに乗っているような感覚を覚えた。そこで目がさめた。Satoshiはすでに起きていてフレンチトーストを作っていた。

「おはよう。コーヒーでいいかい。それとも紅茶にする。」キッチンから笑顔でSatoshiが聞いた。窓からは明るい日差しがさしていた。アトリエには個展会場に搬入・展示する十字架が50本も整然と並んでいた。自分たちで作ったモノでありながら、こうして部屋に十字架が並んでいるのは全く不思議な風景であった。外は快晴で、雪に日光が反射して二倍ほどに眩しく感じた。さっそく氷柱は溶けていた。リズミカルな水の落下音が耳に心地よかった。僕たちは十字架を運搬してくれる運送会社のトラックが来るのを待った。

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たいせつな風景・S市点描「一度だけの赤いシャツ」(1) [小説]

 真っ赤な扉のN画廊は時計台のすぐ北側にあった大正時代の石造のビルの中にあった。歩くと廊下も階段もぎしぎしと音をたてた。S市に住んで初めての冬、あたりは雪に埋もれていた。雪の戸外はたとえ日が照っていなくとも少し眩しく、廊下の暗さに目がなれるのに時間がかかった。目が暗さになれても、真鍮製のドアノブを回して、赤い扉を引いて中に入るのは少し勇気が必要だった。室内には大型のストーブがあって暖かかった。ストーブの上にはヤカンがおかれ湯気をあげていた。その日、僕はどうしてもみたかった1枚の銅版画のためにその場所を訪れたのだった。真正面にかけられていたその画面にはリアルな質感で革ジャンパーが描かれていた。みとれていると背後から声がした。

   「君もこの絵を見に来たの?この質感いいよね。まるで本当にそこにジャンパーがあるみたいだよね。」

僕はそれには答えなかったが、軽くうなずくとまた絵に見入った。Satoshiはストーブのそばの椅子に座ってお茶を飲んでいた。彼も僕と同じ年頃に見えたが、画廊のような場所に落ち着いていることもあって、僕には彼がずいぶん年上のように感じた。Satoshiは立ち上がると会場にかけられた銅版画たちをもう一度しっかりと見てまわっていた。Satoshiは白いシャツにグレーのセーター、それに黒のジーンズ。靴は黒のブーツを履いていた。気取らない姿勢でリラックスして絵を楽しんでいるのがわかった。僕が先に画廊を辞すると、急ぎ足でうしろから追いかけてきた。寒い外に出たので室内でのかっこうの上に黒いジャンパーと白い毛糸の帽子をかぶっていた。

 「このそばにおいしいコーヒーを飲ませる店があるからいこうよ。」と言われた。外はふわふわした牡丹雪が空間を埋めていた。車の間を走り抜けてモノトーンの内装が美しい店に入った。そこはちょうど時計台の眞裏にあたる場所だった。コーヒーを飲みながら話すとSatoshiは高校を出て画家になるためにS市に出てきて修行中とのことだった。今日見た絵はスーパーリアルな表現であったが、彼は抽象画を描いたり、展示空間全体をインスタレーションで構成するなどしているとのことだった。僕の大学の話になり、クラブは何をしているのかと聞くので登山のサークルに入っていると答えると、彼は目を輝かせた。彼も高校時代には山登りをしていたのだ。僕は雪山登山だけはやらないと決めていたので、雪が溶けたらどこかの山に一緒に行こうと約束して別れた。店を出ると、牡丹雪は気温が下がったためにさらさらの粉雪に変っていた。牡丹雪の時は多少暗く感じた景色が白く輝き始めたように感じた。手袋に雪をうけると結晶がどこも崩れずに肉眼で見えた。その完璧なシンメトリーが美しいなと思った。そんな僕にあきれたのか、Satoshiは手をひらひらさせながら走って路地に消えた。

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たいせつな風景・S市点描「水へ。流れはどこに向かうのか」(4) [小説]

 夜のポプラ並木は美しいが、荘厳さは僕らに恐れを感じさせるほどだった。両側のポプラの枝や葉がまるで額縁になる。額縁の中にはあふれるような星の川が流れていた。暗闇の天の川がこれほど美しいとは知らなかった。僕たちは圧倒された。風が来て梢を揺らす。「本当にきれいだな。・・・・あくせく生きているのが無意味に感じるよ」とRyuは言った。

  大きな講堂で講義を聞いていた最中、緑のローンの中の大きな春楡の木が風もないのに音も立てないで倒れたことがある。地響きは凄かった。まわりに人がいなかったのは幸いだった。一人のけが人もでなかったが、その年は3本の春楡が自然に倒れたのだった。木が古くなったからね、と囁かれていたが、僕にはそうは思えなかった。原因は水だと直感していた。水源の水もまわりのビルの影響でローンに流れこまなくなっていたが、それよりも大きな原因は、地下の水脈をビルの土台が切ってしまったことにこそあると思った。水が豊富だったローンに水がこなくなり巨木たちは倒れたに違いなかった。

 ほとんど毎日「DUG」に寄るようになったある日、瑞枝さんが固い表情のままカウンターでぼうっと立っていたことがあった。「どうかしたの」と聞いても答えてくれなかった。いつもの笑顔にはなれないものの、硬い表情を作り笑顔でごまかして「ホットでいい?」と聞くやいなやコーヒー豆を挽き始めたのだった。この日、Ryuには会えなかったのだが、翌日、瑞枝さんに何かあったのかと聞くとRyuも顔を曇らせた。ちょっと複雑なんだけれどと彼はわけを話した。瑞枝さんが「DUG」で働いているのはオーナーで元マスターのことが好きだからで、周囲の誰もが二人は将来結婚すると思っていたのだという。けれど、二人の間に割って入った女性がいたのだ。それがMinamiだった。マスターはなりゆきからMinamiに責任をとらされることになった。「ひどいじゃないか・・」と抗議しても僕の目の前にはRyuしかいない。「僕もそう思う。でも仕方ないじゃないか、三人してそう決めてしまったんだから」。

 その日、僕は「DUG」によって瑞枝さんを海に誘った。二人して夜の海を見たかったのだ。瑞枝さんはマスターに電話して体調が悪いから早引きすると伝えた。カウンターで待っていると長身の男が入ってきた。それが初めて会うマスターだった。ラフなかっこうながら、品の良い高級な服を身につけていたし、靴も時計も完璧だった。「マスター、それじゃあ後をお願いします」とお辞儀をして瑞枝さんは店をでた。そして伸びをしながら「さあ、海を見るかあ」とはしゃいだ大きな声を出した。西の空が真っ赤に燃えていた。列車に乗って北に向かうと日本海にそって列車は走ることになる。そばに漁港のある小さな駅で僕らは降りた。海岸に出ると月明かりで海が鈍色に輝いていた。「きれい」と瑞枝さんが息をのんだ。僕もこんな海を見たことがなかった。水は月に照らされて水とは思えない色や貌を見せていた。この下に生物が住んでいるなど信じられなかった。瑞枝さんは僕の肩に頭を載せたまま黙っていた。僕はかける言葉も見つからず、どんな風に瑞枝さんを慰めていいのかもわからなかった。月は出ているが星もすさまじかった。ちょうど岩によって家の灯りが遮られているので闇が深かった。頻繁に星が流れた。

 結局、瑞枝さんは「DUG」をやめてどういうきっかけだったのか京都の男性のもとにとついでいった。京都から届いたハガキには「私は幸せになる。月夜の海はきれいだったな。忘れられないよ。」と記されていた。Ryuもなんだか「DUG」から足が遠のいたようだった。僕にもRyuたちとは違う友人たちが沢山増えて、僕なりの世界をつくり始めていた。水は柔軟にその姿を変える。人も同じだなと思う。僕は水が織りなす風景に包まれていたい。木は垂直に水を地下から空に立ち上げる。まるで大地のストローだ。風に水のにおいをかいだ。瑞枝さんの髪の香りを思い出した。

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たいせつな風景・S市点描「水へ。流れはどこに向かうのか」(3) [小説]

 「DUG」にはRyuの仲間がたむろしていた。彼の高校時代の友人や予備校の仲間たちだった。会うたびに紹介をされ、彼らの仲間に入っていった。H大学の学生もいたが別の大学の学生もいた。皆、あけすけに良い奴らで、いきなりべたべたされるのが不思議な感覚だった。カウンターに僕らは並ぶことが多かった。瑞枝さんはカウンターの中から適当にあしらっていた。そのうちの一人、MinamiはRyuが僕を紹介すると僕らの間に割り込んだ。そして、まるで恋人のようになれなれしく振舞った。はじめは驚いたが、そういうものかとも思った。離れたテーブル席にいた女子学生が「はじめて会った人にあんなふうに振舞えるなんていいわねえ」と皮肉っぽい、とがった声で言い、僕らにも聞こえた。これにMinamiはすぐに反応した。僕の目をみつめると「はじめまして・・・わたし、あなたが欲しい」と真顔で言った。Ryuは噴き出しそうになるのをこらえていた。瑞枝さんは心配そうな顔でなりゆきを見ている。Minamiは僕の首に腕をまわすと僕の胸に顔をうづめた。髪の香りが鼻をうった。しばらくそのままでいたら、Minamiの体が震えはじめ、それは笑いに変わった。彼女は奔放な小動物のようだった。

 H大学の構内は平坦のように見えて、実は細かな起伏があって複雑な地形をなしている。構内には小川も流れていた。その水源は大学よりも都市の中心に近い場所にある付属植物園やその北側にある大邸宅にある庭の池からの湧水などだった。おそらくは京都と同様にS市の地下にはまわりの山から流れ込んだ大量の水がプールされているのだろう。どこでも水は豊かであり、そのためか緑の密度が濃かった。たとえばH大学では緑の芝生のローンの中に大きな春楡が点在する風景を形成していた。小川のそばには必ず大きな柳が枝をたれていた。まるで巨人がうずくまっているようなシルエットがいくつも見えた。構内を流れる小川は大学のほぼ中央に大きな池を作っていた。その池の先がポプラ並木だ。並木のすぐ近くには別の池があり、その底からは水が常に湧きだしていて砂を巻き上げていた。その様子が美しかった。また水の周囲では北の大地特有の花が咲いた。ポプラ並木の先ははるかかなたまで大学の農園になっていた。もちろん、ポプラも農園の植物も川と地下の水脈に支えられているのだろう。「DUG」で瑞枝さんとRyuと3人で夜まで盛りあがって話し込んだ夜、その勢いでRyuと二人で大学のそばのジャズ・バーで夜更けまで話し込んでしまったことがあった。郊外に住むRyuの家に帰るのは大変だったので、構内にあるサークル会館の部室に泊まったことがあった。ついでに食料も確保しようということになり農園に忍びこんだ。トウモロコシが実っていた。よくたしかめずに何本か折ってかばんに入れると笑いがこみあげた。ところが、月明かりで確かめると食えない家畜用のトウモロコシだった。「人生はそう簡単にはいかないね」「そうだよ、そんなに甘くない」。離れた広場から歌声が聞こえ、焚火の気配が届いてきた。寮生たちが酔っぱらってストームを行っていた。中心には大きな焚火。暗闇にオレンジ色の火のかけらが舞うのが美しかった。Ryuは「僕らも行こう」というなり、ストームの中に入っていった。火のほてりが伝わると興奮に変わる。薪がはぜ、火の粉をまく。歌声はいつまでも続いた。

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たいせつな風景・S市点描「 「水へ。流れはどこに向かうか」(2) [小説]

 S市は北側が平野にひらけていて日本海まで平らだが、西側と南側には山が迫っていた。南の山地を水源とした大きな川が南から流れ込んで扇状地を作りあげ、そのまま都市の中心をかすめながら東側へと抜けたあとに、より大きな河に合流して西に向かい日本海に流れ込むのだ。冬の間に大量に山間部に降り積もった雪は春の強い日射しによって澄んだ水に変わり、この川に豊かな水量をもたらしていた。僕が住んだあたりのこの川は川幅が広く、さざなみをたてながら勢いよく流れていて、川辺には葦が茂っていた。雪解け時期の水は冷たかった。川原に降りていたずらに足を流れに浸すとしびれるような冷たさで、まるで刃物を肌にあてられているようだった。「昔は『トゥイェ・ピラ』と呼んでいたらしいわ。もちろん語源はアイヌ語」と瑞枝さんは言う。少し足をつけるや「キャッ」とすぐに石の上に飛んだ。どこからかニセアカシアの花の香りを含んだ風が吹いてきて瑞枝さんの髪をゆすっている。水によって反射する光線がまぶしかった。逆光の波のむこうに幻のようにビル群が見えた。夢のような光景だった。

 この大きな川をゴムボートで下ったことがある。大学の先輩になかば騙されてボートに乗った。川を下り始めた時には流れが早いのでスリルがあって楽しめた。だが、本当のおそろしさは下流にこそあった。川は下流にいくにつれて多くの支流をあわせて川幅を拡げる。そしてゆったりとした流れに変わる。ゴムボートの中ではやることが次第になくなり、余裕で流れに身をまかせた。だが、この油断がくせものだった。川はより大きな河との合流点に迫っていた。合流する大河ははるか中央山脈から流れてきており、膨大な水量と削り取った岩や泥を巻き上げて濁った逆巻く流れを形成していたのだった。ゴムボートは激しくゆすられ、制御など全くきかずに落葉のように翻弄された。大河のどまんなかに押し出されてしまってから初めて命の危険を強く感じた。岸には寄せられない。このまま海まで流されるのではないかと思った。ゆるやかにみえる流れも錯覚で、中にいると激しく早かった。橋げたが迫ってきてもオールを操って、ぎりぎりにぶつからないように避けるのが精一杯だった。小型の漁船が近づいてきた。マイクを船長が握っている。

「おまえらぁ、どこぅからきたあ。このままだと海にでちゃうぞう」

「T川からですぅ」

「かってにしろぅ」。

近くに三日月湖があってそこが公園になっている。ボートの貸出しもしているので、そこから観光客が迷い出てきたのだと勘違いしたらしい。でも、勝手にしろと言われても、岸につけないかも・・・だった。運がよかったのは満潮に向かう潮目だったことだ。河口に近づいて流れの速度が落ちた。機をのがさずに河口に近い岸にあがった。生きているのが不思議なほどだった。瑞枝さんにこの冒険のことを話すと「馬鹿!」と真剣に怒られた。口に含んだ瑞枝さんのコーヒーが苦くて、でもおいしかった。こわい目をしたのはほんの一瞬であった。「おなかすいてない?」ときかれて減っていると答えると、瑞枝さんは自分用に作ってきた弁当を差し出した。僕らは半分にわけあって食べた。

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たいせつな風景・S市点描「水へ。流れはどこに向かうか」(1) [小説]

 「火を貸してくれないか」という言葉に振り返ると、長髪で背の高い男の笑顔があった。H大学教養学部に付属した食堂で遅めのランチを食べおわってソファで煙草をふかしていた時のことだった。ライターを差し出すと「どうも」といって受け取ると両切りのキャメルに火をつけた。それがRyuとの出会いだった。Ryuとは第二外国語の選択が違ったので、クラスも違っていた。あるいは何かの講義では一緒だったかもしれないが、お互いに気にしたことはなかった。Ryuは僕に連れがいない一人きりだとわかると「坐ってもいいか」ときいた。「どうぞ」と答えると僕の前のソファに腰かけた。お互いにどこのクラスなのかとか、講義はなにをとっているのかなど当たりさわりのない会話をした。その間、何本もうまそうにキャメルをふかした。

 Ryuはちょっと迷った様子を見せたが、「いきつけの喫茶店があるんだけれど、いってみないか」と誘ってきた。初対面ではあったが、話しているうちに僕に何かを感じたのかもしれない。S市出身で浪人もしてH大学に入学してきたRyuには、すでに仲間もいればいきつけのサテンもあって当然だのに、なぜ僕を誘うのかよくわからなかった。医学部の脇をぬけると広い通りに出る。そこを突っ切ると「DUG」はあった。「いらっしゃい」とカウンターの奥からやわらかい声がした。瑞枝さんはやさしい笑顔で迎えてくれた。常連が並ぶのだろうカウンターに座った僕はまわりを見まわした。どうやらH大学の学生もいるが、近くにある女子大学の学生が多いようだった。瑞枝さんが作るケーキがその原因であるのだと知るのは少し後のことだ。Ryuだって僕のことをよく知らないくせに、瑞枝さんには昔からの知り合いのように紹介した。「ご注文は」の笑顔が美しかった。S市は水がおいしい。だからだろう、古くから喫茶店文化が花開いていた。一般的にいってどこのコーヒーもおいしいのだ。「ブレンドをください」「かしこまりました」豆をひいてドリップする。カウンターには大きな青い花瓶があってユリの花がいけてあった。その白い花弁に黄色い花粉が散っているのが見えた。ユリ独特の匂いが揺れていた。入ってくる常連らしき面々が次々にRyuに声をかけてくる。「ねえ、ここにはいつも?」「うん、出入りしだしたのは高校生の時からだからね。浪人の時はほとんど毎日来ていたかもしれない」「ねっ」とRyuは瑞枝さんにウインクした。瑞枝さんはいたずらっこをあやすような表情をした。僕はグラスの水を飲みほした。僕も常連になるのだろうなと予感した。

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たいせつな風景・S市点描「小川の流れと「きりん製作所」の路地(4) [小説]

 前年から続いていたS市からみると西南にあたる火山の噴火は少し落ち着いてはいたが、ときどきはS市にも火山灰を降らせた。面白いことに火山灰がふると紫陽花の花がピンクに変った。酸性の火山灰の作用のようだった。ニュースによれば激しい火山活動はおさまったが、山頂部分に新たなドームができつつあるとのことだった。小川の周囲の公園には子供たちやその親たちが遊ぶ姿が目立つようになってきていた。柳はすでに濃い緑の大きな葉になっており、重量感を感じた。登山のサークルに加わったこともあって、きりん製作所のある路地に踏み込むこともしなくなっていた。そして夏が近づいていた。

 夏休みは日高山脈と大雪山への登山に行った。その後実家のある町に帰ることにした。S市からみれば遥かに南にある町である。S市から空港まではバスに乗ることになる。バスの座席に座りながら、ひさしぶりに沙和子さんのことを考えた。すると、バスの天井のすり硝子を通して部分的に欠けた太陽が見えた。事前には知らなかったが、日蝕が始まっていた。まるで沙和子さんが太陽をかじったように感じた。部分日蝕であったのだが、それでも最盛期には少し薄暗く感じた。実家から帰ってくると小川には大勢の子供たちが水遊びに来ていた。水着を着た小さな子供たちが、ばしゃばしゃと歩いたり、水を手ですくってかけあったりしていた。逆光でみると水がきらきらと輝いていた。近くにあるプールから帰る少し大きな子供たちも日焼けした体を見せていた。小川に沿った道をたどり、路地に入った。あれっ?と思った。青い扉はあるのだ。しかし、そこには「きりん製作所」と描かれた看板がなかった。確かめてみる。たしかに青い扉はきりん製作所のものだ。見覚えがある。窓も同じだ。でも、室内に楽器の姿がない。いくら待っても大型の弦楽器の音は響いてこなかった。

 あとで知ったのだが、白鳥さんは夏にでかけた日本海につきでた半島での車の事故で亡くなっていた。木々の葉が色づくころに藤棚の下で偶然に沙和子さんに出会って聞いた。
 「沙和子さん、チェロやコントラバスを作っていたのに、どうしてきりん製作所という名前だったのか知っていた?」
「いいえ、聞いたことはありませんでした・・・。」

いつかM動物園でみた、きりんのまなざしを思い出した。きりんは遥か遠くを見つめていた。S市のきりんは一体何を待ち望んでいたのでしょうね。ねえ白鳥さん、あなたにもわからないですか。すると、聞こえるはずもないバッハのチェロ曲が耳に響いてきた。沙和子さんをみると、彼女にもその音が聞こえているようだった。お互いに「さようなら」も言わずに別れた。沙和子さんのむこうに見える西の空は真っ赤に燃えていた。

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たいせつな風景・S市点描「小川の流れと「きりん製作所」の路地」(3) [小説]

 それからの私は大学の講義、自主ゼミ、サークル活動、学園祭の準備などがあって、急に忙しくなった。きりん製作所のことを忘れたわけではなかったが、まわりもあわただしくなり、考える余裕がなくなっていた。季節はいつの間にか初夏を迎えていた。S市の初夏は実にさわやかだ。梅雨のないS市は青空が心地よく広がる毎日だった。そして緑が日増しにその色を濃くしていく。構内のローンで寝転がり、眩しい日差しをたっぷりと浴びた帰路、地下鉄の長い階段をのぼりながら「そうだ、きりん製作所を訪ねてみよう」と思いついた。脳裏にはM動物園で見た、あみめきりんの空ろなまなざしが浮んだ。階段をのぼりきった道路は夕方の斜めの光線ではあるけれど、わずかに光を残していた。公園から小川に沿って歩く。小川からはずれるように脇道へ入ると町の様子が少し変る。なんだか雰囲気の異なる、違う街並みに迷い込んだような錯覚を覚えた。そのまま進むと見覚えのある「きりん製作所」の看板があった。入口は青の扉だ。いつかの夜、髪の長い少女が吸い込まれたのは、この扉だった。あの時は窓からあたたかい光がもれてきていた。その時、低い弦楽器の音が聞こえた。あっ、チェロの音だ。弓ではなく、指でピチカートしている音だ。よく聞くと曲を弾いているのではなく、音を試しているようだ。やがて、弓で引き出すような音が響いた。音はふくらみ、あたりを充満し、遥かな小川に向かって吸い込まれてゆくようだった。

 「おじゃまします」と二度ほど声をかけると、内側から扉が開いた。
 「どうぞお入りください。ご依頼ですかな」
おだやかな声。白髪のおじいさんだった。前掛けをした姿だった。
 「あの、こちらは・・・」とたずねると、
 「ご存知なく来られましたか」と微笑される。
 「ええ、きりん製作所というお名前がどうにも気になりまして」
 「学生さんですか」
 「はい、H大学の・・・」
みまわすとチェロやコントラバスといった大型の弦楽器が置いてある。奥は作業所になっているようだ。
 「奥で作られているのですか?」とたずねると深くうなずかれた。
 「たしかにきりん製作所という名前では、ここが楽器製造工房とはわからないだろうね」とにっこりされた。
そんなやり取りをしていると、背後の扉がきしんだ。
 「こんにちは、白鳥さん。あっ、お客様でしたか・・・・」
 「こんにちは。沙和子ちゃん、今日は何?」春にみかけた髪の長い少女がそこにいた。
 「ちょっとチェロの様子を見ていただけますか。なんだかちょっと調子が出なくて」
少女はチェロを抱えて入ってきたのだった。沙和子と呼ばれた少女は青空に似た色のブラウスに紺色のスカートを着ていた。目の力が強く、それは意志の強さを物語っているようだった。少女はケースからチェロを取り出し、白鳥さんとともに音を試しだした。チェロの音が腹に響いた。美しい音だった。楽器にも演奏にも詳しくはない私には二人が何をしているのかはわからなかったが、それは美しい光景だった。その様子に見とれていると、「よろしければお茶でも飲んでいかれませんか」と誘われ、白鳥さんと沙和子さんと三人で紅茶をいただいた。

 沙和子さんを送るため、部屋の方向とは逆であるが、小川に沿った道を歩くことにした。この道を歩くのは初めてだった。ずっと道の右側を小川が流れ、流れがはやいために激しいせせらぎの音がずっと響いていた。左側は住宅だが、大きな邸がほとんどだった。音楽のこと、チェロのことを聞きながら歩いた。流れはさらに北に続くのだが、大きな公園に向かって小川を渡り公園内の小道を歩いた。甘い香りがした。藤棚が作られていて、その藤が美しい房をなして咲いていたのだ。月のあかりに照らされた青紫の花弁が輝いて見えた。沙和子さんは、うれしそうに「藤の花の香りは人を狂わせるというけれど本当かしら」と笑った。月光で見る藤は独特の質感を感じた。古い洋館があって道はそちらに続いていた。地下鉄の駅はその先で沙和子さんをそこまで送って別れた。沙和子さんは、階段をおりながら笑顔で手を振っていた。
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