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新宿・落合散歩(15) 気になるオリエンタル写真工業 [落合]

 1929(昭和4)年3月4日、オリエンタル写真学校の開校式が行われた。オリエンタル写真学校も落合工場と同様に西落合・葛ケ谷に設置された。写真技術の普及を目的とはしているが、アマチュア写真家育成を主眼とはしておらず、写真館の主、後継者など写真にプロとしてかかわる経験者のさらなる育成のための学校であった。卒業までの期間は3か月と極めて短期であったようだ。『フォトタイムス』1929(昭和4)年4月号には第一回入学生が52名であったことと全員の名前が記載されている。あわせて「オリエンタル寫眞學校規則」が掲載されている。

第一條 本校ハ寫眞ニ関スル高等ノ學術技能ヲ授ケ併テ徳性ノ涵養ニ勞ムルヲ以テ目
    的トス
第二條 本校ハ一般寫眞術ノ素養アル者ニ對シ更ニ高級ナル技術並ニ學識ヲ授クルモ
    ノトス
第三條 本校生徒ノ定員ヲ定ムルコト左ノ如シ   五十名

これをみると、カメラを知らないアマチュアを教育する学校ではなく、すでに写真撮影についてわかっているが、よりプロフェッショナルな知識、技術を学ぶための学校として設立されたのがわかる。実際に『フォトタイムス』に掲載された学生募集の広告をみると「入学資格は現に営業に従事しつつある寫眞館主及オリエンタル寫眞學校の認定せる寫眞技術者、寫眞館主の證明を有する寫眞技術者、寫眞學校卒業者にして尋常小學の義務教育を卒へたる者。」と具体的な記述がある。学費は入学金が3円、授業料は3か月で60円。寄宿舎もあったようだ。第1回の入学生がすでに定員を超えているところをみると人気があったのだろう。オリエンタル寫眞學校の第2回生は9月16日に入学式が行われた。この中にはのちに田村茂になる、田村寅重が含まれていた。オリエンタル写真学校は順調に卒業生を世に送りだしていった。植田正治、瑛九、林忠彦、映画監督の木下惠介などがその卒業生である。また、1929(昭和4)年4月27日には菊地東陽が社長に就任している。
 『フォトタイムス』はモダーンフォトセクションというコーナーを雑誌内に設けたことが特徴的であり、新興写真普及のための一翼を担った。1929(昭和4)年3月号には勝田康雄が「モダーンフォトセクション新設に就き」という文章を寄せている。「この欄が増設された原因は主として木村主幹の生活態度がこの二三年来目立つて變化して來た事で之は氏と交際して居られる方なら誰でも容易に認められる事と思ふ。」「要するに氏のかうした生活的心境の變化は遂に寫眞畫壇に於ても舊來のアカデミックな畫風を讃美されると共に所謂ボケた寫眞、それからフオトグラムの類をも認めらえるに至つたのである。」とし、直接的な原因として国際光畫協會が生まれて活発な運動を起こそうとしていること、日本光畫協會に籍をおいている伊達義雄氏を編集部に迎えたことをあげていて、興味深い。しかし、モダーンフォトを定義できているとはいいがたい文章になっていて、まだこの段階では藝術寫眞が主流であって、それ以外のなかから出てきた新たな動きを「モダーンフォト」としてくくっているようだ。ここで名前をあげられた「國際光畫協會」であるが、事務所は府下上落合百八十六番地、つまり村山知義の三角のアトリエである。協會員は、浅野孟府、堀野正雄、勝田康雄、河野元彦、村山知義、中戸川秀一、萩島安二、佐々木太郎、佐々支門。顧問には菊地東陽、木村専一も名を連ねている。堀野正雄のスタジオも上落合にあったので、オリエンタル写真工業、オリエンタル写真学校、モダーンフォトセクションを設けた『フォトタイムス』の編集部もあわせてモダーンフォトに関係する組織が落合地域に集中していたのだった。國際光畫協會は1929(昭和4)年2月15日より23日まで新宿紀伊国屋書店において第一回展覧会を開催、特に印刷に利用すべき商業写真の実例やソヴィエトロシアの宣伝ポスターへの写真の利用など写真単独の作品展示ではないところはMAVOの姿勢を踏襲しているようだ。展示の様子は堀野正雄がレポートしている。第二回展は4月5日から11日まで有楽町の東京朝日新聞社展覧会場で開催されている。矢継早な展覧会開催である。1929(昭和4)年5月号の「モダーンフォトセクション」は「フオトグラムの製作と其の感想」と題した記事を木村専一がよせている。印画紙としてオリエンタルブロマイドのホワイトスムースを使い、木村専一自身が実験的にフォトグラムの制作を行ったことをレポートしている。木村専一は1900年生まれ。森芳太郎に写真を学び、1923(大正12)年にオリエンタル写真工業に入社。1924(大正13)年の『フォトタイムス』の創刊にあたり編集主幹になっている。この木村の影響からか杉田秀夫が「フオトグラムの自由な制作のために」を書いたのは1930(昭和5)年8月号においてである。冒頭「かつて日本に於ける第一番のフォトグラムの技術報告が本誌主幹木村専一氏の手によってなされた」で始まるのちの瑛九の文章である。瑛九は自らのフォトグラムを「フォトデッサン」と命名し、フォトデッサン集を発行した。今でも日本のフォトグラムといえば瑛九の名前があげられるであろう。しかし、その源流は木村専一にあった。モダーンフォトセクションの内容であるが連載が開始された1929年のタイトルと執筆者は以下である。
   1929年3月号 伊達義雄 私の人物畫に付て
            勝田康雄 一九二九年独逸寫眞年鑑
        4月号 伊達義雄 表紙寫眞フオトグラムに就て
            伊達義雄 デフオルメーシヨンの研究
            堀野正雄 国際光畫協會第一囘展覧會に際して
        5月号 木村専一 フオトグラムの製作と其の感想
            勝田康雄 ソヴイエツト・ロシアの光畫界
        6月号 伊達義雄 デフオルメーシヨンの研究(二)
            木村専一 フオトグラムの研究
        7月号 田村 榮 表紙寫眞の制作に就て
            有馬光城 一九二九年度 日本光畫協會展雑感
        8月号 伊達義雄 デフオルメーシヨンの研究(三)
            有馬光城 一九二九年度 日本光畫協會展雑感(二)
        9月号 木村専一 寫眞による仕事のいろゝゝ(一)
            伊達義雄 静物畫に就て―光村利弘氏の作品―
       10月号 木村専一 寫眞による仕事のいろゝゝ(二)
       11月号 木村専一 寫眞による仕事のいろゝゝ(三)
            堀野正雄 肖像寫眞に就て
       12月号 木村専一 寫眞による仕事のいろゝゝ(四)
            堀野正雄 再び肖像寫眞について
モダーンフオトセクションは1935(昭和10)年まで続いた。その執筆者たちは以下のごとくである。
 片岡伍朗、山内光、板垣鷹穂、中原三雄、古川成俊、相内武千雄、瀧口修造、五城康雄、清水光、藤代繁、渡邊義雄、モホリー・ナギ、光村利弘、ブラツサイ、ポオル・モラン、田村榮、永田一脩、原弘、稲葉熊野、アーノルト・フアンク、白鳥謙治、新井保男
この中でもっとも登場が多いのは木村専一で18回、堀野正雄が14回、板垣鷹穂と伊達義雄が7回づつ登場している。
モダーンフォトセクション以外にもプロフェッショナルフォトセクション、ステージフォトセクションがあった。とくにステージフォトが単独のセクションで構成されているのは特徴的ではないかと思う。ここでも堀野正雄の影響を感じる。堀野は築地小劇場の舞台写真を初期において数多く撮影していた。1930(昭和5)年、木村専一を中心にして新興寫眞研究會が結成された。そして機関誌『新興寫眞研究』を11月に創刊する。第1号の論文執筆者は、板垣鷹穂、木村專一、堀野正雄、佐藤黒人、平野譲、田村榮。掲載された写真作品の撮影者は、堀野正雄、伊達良雄、玉置辰夫、小川三郎、西山清、吉岡敬三、榊原松籟、鉄 末次郎、徳堂翠鳳、窪川得三郎、宮越吉松、寺川良輝である。第2号は1931(昭和6)年1月に刊行されており、論文の執筆者は、木村專一、平野進一、堀野正雄、平野譲、伊達良雄。掲載された写真の撮影者は、堀野正雄、黒沢中央、玉置辰夫、木村專一、光村利弘、渡邊義雄、石山泰久、飯田幸次郎、平野進一、寺川良輝、阪玉陽、西山清、田村榮である。第3号は1931(昭和6)年7月の刊行で、論文の執筆者は、木村專一、堀野正雄、平野譲、佐藤黒人。掲載された写真の撮影者は堀野正雄、木村專一、田村榮、窪川得三郎、西山清、吉岡敬三、渡邊義雄、平野進一、伊達良雄、古川成俊、光村利弘、寺川良輝である。機関誌は主幹の木村專一の渡欧により、この3号で終刊しているが、展覧会は通算7回、1932(昭和7)年まで開催されている。『フォトタイムス』1931(昭和6)年9月号の写真口絵には飯田幸次郎の「店頭商品(底鐵)」が掲載されており、「新興寫眞研究會第四回出品作品」であるとのキャプションが付記されている。この「第4囘研究発表寫眞展覧会」は1931(昭和6)年7月25日から30日まで上野松坂屋中二階において開催されている。ちなみに第5回は8月10日から25日まで宝塚温泉大劇場において開催されており、1931(昭和6)年12月号において伊達義雄の「フォトモンターヂュ」と飯田幸次郎の「ビラ」が写真口絵に掲載されている。木村がヨーロッパに訪問した影響であろうか、モダーンフォトセクションにモホリイ・ナジイが登場している。新興寫眞研究會の事務所は東京市外高田町大原1-570番地の木村專一の自宅におかれ例会もそこで開催されたようだ。この時期は編集部員の田村榮が昭和通り三丁目に伊達義雄が上高田118に住むことになったので、落合ではないがオリエンタル写真工業本社のそばに全員が住んでいたことになる。研究会の同人は、西山清、窪川得三郎、寺川良輝、堀野正雄、榊原松籟、鉄 末次郎、吉岡敏三、海部誠也、小林祐史、三国庄次郎、黒田六花。幹事には玉置辰夫、渡邊義雄、田村榮、伊達良雄、平野譲、塩谷成策。
主な会員としては飯田幸次郎、宮越吉松、小川三郎、佐藤黒人、平野進一、徳堂翠鳳、花和銀吾、阪玉陽、石山泰久、黒沢中央、古川成俊、光村利弘、福田勝治、高尾義朗など総勢50名程度であった。展覧会は主に堀野正雄が段取りしていたようだ。木村專一がそのような報告レポートを書いている。1931(昭和6)年9月20日木星社書院から堀野正雄の写真集『カメラ・眼×鐵・構成』が刊行される。板垣鷹穂が監輯した一冊である。「新興藝術の最高峰、尖端的大名著!」というキャッチコピーがつけられた広告が『フォトタイムス』にも掲載されている。「新興」「モダーン」といった流れを形成した、その大きな役割をオリエンタル写真工業ならびに雑誌『フォトタイムス』は果たした。
 2015年7月4日から8月30日に新潟県立美術館、9月19日から11月15日まで世田谷美術館で「生誕100年 写真家・濱谷浩」展が開催された。濱谷は1933(昭和8)年10月にオリエンタル写真工業に就職、銀座の東京出張所に勤務した。写真技師として勤務していた渡邊義雄の手伝いをすることもあったようだ。1934(昭和9)年にはオリエンタル写真学校の講習を受講している。オリエンタル写真工業での勤務は1937(昭和12)年まで続いた。オリエンタル写真工業とオリエンタル写真学校は多くのプロ写真家を育成した。そして新興写真の流れを作ることに『フォトタイムス』は大いに貢献したのだった。これらすべては落合地域でおきた。そしてその源流は幕末の徳川慶喜からの江戸の尻尾であったのかもしれない。
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