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新宿・落合散歩(14) 気になるオリエンタル写真工業 [落合]

 「新宿・落合散歩」第五章で記述したように西落合・葛ケ谷にはオリエンタル写真工業があった。オリエンタル写真工業は、雑誌『フォトタイムス』を発行した主体であったこと、写真技術の普及のためにオリエンタル写真学校を設立したこと等、写真史の中で写真用材の製造、販売会社のみではない活動を行った会社として特筆すべきだと思っていた。ところが、会社自体のことを調べると会社の設立経緯も興味深いことがわかり、この文章を書いている次第である。

 オリエンタル写真工業の社史をインターネットで検索すると渋沢社史データベースにヒットした。渋沢社史データベースは明治以降日本で出版された全社史約15,000冊の中から、渋沢栄一に関連する会社の社史を中心に約1,500冊分のデータを収録しているもの。ここに『オリエンタル写真工業株式会社三十年史』(1950年5月刊行)も含まれている。つまり、オリエンタル写真工業は渋沢栄一に関連する会社であるということになる。写真という観点で見るならば十五代将軍である徳川慶喜は大の写真好き。また、若き渋沢栄一は江戸遊学の際のつながりから一橋慶喜の家臣となった。そして慶喜が将軍になってからは幕臣となり、幕末期は慶喜の弟・徳川明武の随員としてパリ万博を視察、あわせて欧州諸国を訪問したのだった。ところがこの間、日本では慶喜が大政奉還を行ってしまう。新政府から帰国を命じられた明武と渋沢はマルセイユから帰国した。帰国した渋沢は慶喜が謹慎していた静岡に赴いた。渋沢は慶喜から「お前の道をゆきなさい」の言葉をもらい、静岡で会社をおこした。その後、大隈重信に説得されて改めて大蔵省に入省したのだった。つまり、渋沢栄一は写真好きの徳川慶喜と浅からぬ縁があった(深い縁があったというべきか)ということである。
 では、なぜオリエンタル写真工業の社史が渋沢社史データベースにあるのかである。そもそもオリエンタル写真工業の設立にかかわる中心人物であるのは菊池東陽と勝精である。 
1918(大正7)年6月に勝精は渡米する。そして1919(大正8)年3月、菊地東陽と勝精とが日本に写真工業会社を設立するために帰国の途につく。二人は4月18日に横浜に到着した。菊地東陽にとっては18年ぶりの日本であった。6月19日、華族會舘において「勝伯菊地東陽氏感光乳剤実験会」が開催されている。7月頃、いよいよ写真工業会社の設立に関する協議が進行した。8月19日、赤坂区氷川の勝伯爵邸において会社設立に関する最終決定会議が行われ議決された。会社設立の出資者として菊地、勝が相談していたのは渋沢栄一であった。ところで、伯爵・勝精であるが1899(明治21)年に徳川慶喜の十男として誕生した。勝海舟は実子・小鹿が早世したため徳川慶喜、家達に申し入れ、精を養子とした。1899(明治32)年2月8日、海舟の死去に伴い精は伯爵を授爵した。勝と渋沢、そして慶喜との関係を考えるとオリエンタル写真工業の設立協議はとても興味深い。慶喜が将軍を辞してから暮らした静岡では今でも写真サークルの活動が盛んであると聞いた。何かの関連か影響があるのだろうか。勝精は趣味人であり、写真やビリヤード、猟銃、投網などを大いに楽しんだ。趣味であった写真が嵩じた結果が写真工業を学ぶための渡米であり、日本に帰ってのオリエンタル写真工業の設立であったのだろう。8月24日「オリエンタル写真工業」の社名が決定された。9月22日に勝精伯爵邸において創立総会が開催されオリエンタル写真工業は創立された。11月17日帝国ホテルにおいて首脳者の顔合わせがあり、渋沢栄一、高峰譲吉が出席した。研究部長に勝精、製造部長には菊地東陽が選任された。1920(大正9)年の初頭、菊地東陽はふたたびニーヨークにわたり写真工業会社を運営するにあたり必要な機械や技師の雇い入れに関する契約を締結するなど行っている。この時は英国にもわたり機械の調達を行うとともに英国の写真事情の視察も行っている。8月19日、工場敷地として落合葛ケ谷前耕地一区二千五百五十二坪購入のことを決定した。9月27日に起工、1921(大正10)年6月25日に本社工場は落成している。9月25日には丸の内の日本工業倶楽部においてオリエンタル写真工業株式会社製品発表会を開催している。この年の12月に人像用印画紙オリエントを発売、29日に京橋区鎗屋町一番地に東京営業所を創設、本格的な営業を開始した。順調に製品を発売していったやさきに1923(大正12)年9月1日を迎える。関東大震災によって東京営業所は壊滅。即座に東京営業所を落合工場内に移転した。そして、11月19日には本社を落合工場に移転した。震災の被害は下町では深刻であったが、落合地域は比較的被害が軽く、震災後には多くの転入者を迎えることになった。オリエンタル工業の落合工場も震災後すぐに製造を再開することができた。そして同年中に本社所在地を東京府豊多摩郡落合町大字葛ヶ谷六六〇に移転登記したのだった。一方、オリエンタル写真工業の機関誌である『フォトタイムス』は1924(大正13)年3月に創刊された。『フォトタイムス』はオリエンタル写真工業の宣伝企画課内に設置されたフォトタイムス社が発行した写真雑誌である。この時期の写真の多くはアマチュア写真家が撮影したものであったが、『フォトタイムス』は写真館の経営者を含めたプロの写真家向けの雑誌という側面が強かった。そのため初期の口絵写真はポートレート写真が中心になっている。そもそも創業者の一人である菊地東陽はニューヨークでキクチ・スタジオという写真館を経営しポートレートを主体としていた。キクチ・スタジオといえば面白いエピソードがある。キクチ・スタジオは5番街西42丁目の市立図書館の近くにあったが、1919(大正8)年、菊地東陽がオリエンタル写真工業を設立するために帰国したあとに働いた日本人がいた。のちに雑誌『光畫』で活躍する写真家・中山岩太である。中山は1895年福岡県柳川市出身、1915(大正4)年に東京美術学校臨時写真科に入学、1918(大正7)年に卒業した。そして農商務省の派遣でカリフォルニア大学に学んだ。その後ニューヨークに移住、キクチ・スタジオで働いたのであった。1921(大正10)年9月には西45丁目にラカン(Laquan)スタジオを開設、独立した。これにより安定した生活が可能な収入が得られるようになったが、1926(大正15)年夫婦してフランスに渡る。フランスではマン・レイやエンリコ・プランポリーニと知り合うことになる。1927(昭和2)年4月にパリで未来派第二世代、プランポリーニの「未来派パントマイム」を中山は撮影している。プランポリーニは機械芸術をテーマに掲げたフォトモンタージュを主な手法にしたアーティストであった。当時、パリではシュルレアリスムが未来派を駆逐しており、多くの観衆はシュルレアリスムのイベントの方に参加。未来派パントマイムは人気がなかったという。だが、同じ日に開催されていたにもかかわらず中山岩太は未来派パントマイムの方に出かけていたのである。中山が撮影していたために、その様子が想像できるのだから面白い。この年、中山は帰国。ハナヤ勘兵衛らとともに芦屋カメラクラブを結成する。そして1932(昭和7)年に雑誌『光畫』の創刊に参加する。写真におけるモダニスムを代表する中山岩太の出発点において菊地東陽が間接的にせよ関わっていたのが興味深い。
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