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新宿・落合散歩(2) [落合]

第一章:初期の落合住民は画家たち

 落合地域への人の流入に大きな変化が生じたのは関東大震災以後である。落合地域が震災の被害、特に下町地域で甚大な被害となった火災を免れたことから中心部からの避難者が借家をこの地域にも求めたあたりから転入者が増えてくる。初期の落合居住者はこの震災以前の住人であると私なりに整理している。

 1923(大正12)年9月以前に落合を住まいとしていた文化人を見ると画家が多いことに気付く。もちろん、画家ばかりではなく作家の辻潤や小山勝清、歌人の会津八一なども居住していた。画家のうち目立つ初期住人では1916(大正5)年にアトリエを下落合に構えた中村彜がいる。エロシェンコを目白駅でスカウトして中村彜のアトリエまで連れてきた鶴田吾郎、彜の盟友である曾宮一念も下落合に住んでいた。1921(大正10)年5月28日の新聞には「エロシェンコが上落合の辻潤の家に遊びに来た」の記事があり、中村彜作の重要文化財絵画「エロシェンコ氏の像」のなりたちエピソードとあわせて興味深い。中村彜のアトリエは増築や改築はされているものの画家・鈴木誠によって継承され、当時と同じ場所に現存していた。そして現在は、部材などを最大限にいかしながら大正時代の姿に復元、アトリエ記念館として保存されている。

 同じく画家、金山平三が中井二の坂上にアトリエを建設したのは1923(大正12)年。金山は下落合の中井地区をスペインの芸術村、アビラに似ているとして「アビラ村」と呼んだ。そして、日本における芸術村をこの地に作ろうとした。しかしこの構想はほかの画家たちの移住がなく成功しなかった。ただ「芸術村」の名前は伝承したようで、1925(大正14)年にこのアビラ村のすぐ西側に越して来た、詩人の高群逸枝の『火の国の女の日記』には当時の生活の述懐があって「この一帯はそのころようやく新開地めいてきだしたところで「芸術村」という俗称もあった。」の記述がある。金山のアトリエも一昨年までは現存していたが、現在は取り壊されてしまい、何の痕跡も残ってはいない。場所の記憶のみがわれわれに残された。

 パリの町を激しいタッチで描いた佐伯祐三が下落合にアトリエを作ったのは1921(大正10)年のこと。パリに1923(大正12)年に留学するまでと1926(大正15)年に帰国して、ふたたびパリにむかう1927(昭和2)年までの期間にアトリエと併設された母屋に住み、落合風景を中心とした東京の風景を描いている。このアトリエは下落合661番地に母屋とともにあったが、現在はアトリエのみが保存されている。パリで夭逝した佐伯の絵は1930年協会会員であった外山卯三郎の実家に届けられたようであるが、外山の実家は下落合1146番地であった。

 震災後の住民たちが落合を住処にしてゆくにあたり、もっとも求心力をもっていたとおぼしき初期の住人はなんといっても村山知義である。村山が落合にいたためにアヴァンギャルド芸術家たちは落合に集った。またボルシェビキに変ったのちの村山のもとに次第に左翼文化人たちは集まり、かたまって住んだのであった。そのため落合一帯は「落合ソヴィエト」と呼ばれたこともあったそうだ。その求心力をもった村山知義がベルリンに留学に行くのは1922(大正11)年初めのことであるが、その時点ではすでに村山には上落合186番地に母や弟とともに住んだ家があった。ベルリンには哲学を学ぶために留学したのだが、留学してすぐに構成派や未来派の美術、演劇、舞踊等にふれて学業を放棄、美術制作に没頭した。ベルリンではアヴァンギャルド芸術を紹介する画廊に入りびたり、現地で開催された大規模な未来派美術展覧会にも参加している。だがベルリンにはわずか1年の滞在で1923(大正12)年1月には帰国、三角のアトリエを母屋に足している。5月には小滝橋に近い自宅で「村山知義、意識的構成主義的小品展覧会」を開催した。この展覧会には近くに住む未来派美術協会所属の柳瀬正夢、尾形亀之助や大浦周蔵、門脇晋郎などが訪れたが、彼らも落合、あるいは近隣の住人であった。柳瀬の下宿は東中野の住所ではあるが、村山の自宅から徒歩で10分とかからない場所であった。尾形は村山の叔母が落合にもっていた家作を借りていた。村山自身が『演劇的自叙伝2』の中にそう記述している。場所は現在の中井駅の近く、落合第五小学校の南側にあたる場所(上落合742番地)であった。そばには大浦や門脇の住む借家もあったようだ。このメンバーたちで7月はじめに前衛芸術家集団マヴォを結成するのだから、まさに落合はアヴァンギャルド芸術の故郷ともいうべき土地である。尾形亀之助は義兄のすすめで未来派美術協会に属した。東中野に引っ越してきた柳瀬正夢も未来派の会員。二人はともに協会に不満を持っていた。その二人の真ん中にベルリンから最新の構成主義をひっさげて村山知義が帰国したのであった。おそらくは大きな期待をもって村山を迎えたことは想像に難くない。グループ・マヴォは浅草の伝法院で「マヴォ第1回展覧会」を7月末に開催した。そして機関誌『MAVO』を創刊した。雑誌『MAVO』は世界のアヴァンギャルド芸術雑誌(たとえば『デ・シュトゥルム』や『MA』など)と連携、お互いに交換された。

 こうした状況下、1923(大正12)年9月Ⅰ日、関東大震災が発生した。当時の村山はまったくプロレタリア文化に興味がない。総合芸術としての建築の冒険的なテストのチャンスが与えられたと考え、バラック建築の装飾を次々に請け負った。のちに深くかかわることになる築地小劇場を土方与志と小山内薫が立ち上げる。今和次郎のバラック装飾社とも連携した。柳瀬正夢は大山郁夫の家にいて憲兵隊に踏み込まれた。結果、下宿を憲兵隊に襲われ連行されたが、戸山ヶ原の直前に特高警察に引き渡されて淀橋警察署・戸塚分署に留置された。そこでアナキズム作家、平林たい子と知り合うことになる。後に平林とマヴォメンバーの高見沢路直(後の漫画家・田河水泡)とのお見合いを柳瀬夫妻が取り持つことになるのだから、これまた不思議な縁である。中井四の坂上に震災前から住んでいた熊本出身の作家、小山勝清は当日でかけていて検挙を免れた。特高が尾行につくような社会主義者であった小山は危険を感じ、逆に地域の自警団に加わるという選択を行いことなきを得た。落合の住人ではないが、1920(大正9)年に早稲田から落合を通って上高田に越してきたのは日本画家の橋浦泰雄であった。橋浦は鳥取・岩見の出身。鳥取士族の父をもつ大衆小説作家・白井喬二と親しく、弟の関係から有島武郎とも親しかった。民俗学研究においては柳田國男の一番弟子のような存在でもあった。鳥取人脈をもつ橋浦が上高田に下宿を構えたことで、のちに南宋書院をおこす涌島義博が妻の田中古代子とともに上落合に住むことにつながった。橋浦は有島武郎の著作集を出版していた足助素一の叢文閣の編集や本の装丁を担当していたが、震災の地震見舞の際にはじめて叢文閣において大杉榮と偶然に出会う。大杉が憲兵に虐殺される直前のことである。足助と橋浦は大杉の葬儀を取り仕切ったが、それは落合火葬場でのことであった。前述したように落合は震災後に大きく変わる。新築の借家が数多く建てられたのだった。
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