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新宿・落合散歩(1) [落合]

序章:散歩のはじまり

 私が新宿・落合地域の散歩を始めたきっかけ、それは1995年に杉並区和田から新宿区上落合に越してきたことが一つの契機ではあったが、最後に引き金を引いたのは詩人・未生響さんとの会話であった。その会話とは二人がともにファンである瀧口修造のことについてであった。私が落合に越したことを知った未生さんが「瀧口さんも落合でしたよね」と言われたのだ。「そうでした、気づきませんでした。」そう、私は瀧口さんが西落合の住人であったことを失念していた。ただし、この会話を交わしたときには私が落合に越して来てからすでに10年が経過していた。それから瀧口さんが自宅でつくっていたオリーブのビン詰の話になった(実際につくったのは舞踏家の石井満隆さんらしいが)。二人のこうしたオリーブについての会話は瀧口さんが亡くなったのが1979年であるから、没後26年のことであった。「当時のオリーブの樹はさすがにないでしょうね、お宅のあとにはマンションが建っているのかもしれないですね」などとその後を想像しながら話し合ったのだった。オリーブの実をいただくことはできなくとも、せめてその子孫の木を見たり、その葉の一枚なりを手にいれられないだろうか、と二人で盛り上がったのだった。それはイメージの世界での瀧口邸への訪問であった。しかしその場所への現実的訪問も実現は間近なのであった。私がある古書展で詩の雑誌をみていたら、巻末に詩人たちの住所が掲載されており、そこに瀧口修造の住所もあった。地番変更があるので、古い地図を確認して現在の住所と対照して場所の特定をした。桜にはまだ1週間くらい早い春に妻を伴って徒歩でその場所を訪ねた。少し遠い散歩という感覚の距離であったが、もちろん徒歩での訪問が可能な距離ではあった。近くまでゆくと、行く手には水道塔が異様な姿を見せていた。そして瀧口邸のあとは少し入りくんだ場所にあるため、逆の駐車場からその場所を見たのだった。そこにはオリーブは若木とてなく、かわりに大きな枝垂桜が見事な花を咲かせていた。まるで夢のような情景であった。反対側にまわると私道のような道路があり、そのつきあたりが滝口邸のあった場所であった。近所の方の話も聞かせていただけた。「今も訪問される若い方がいて、きっと瀧口さんは喜んでいると思いますよ。そういう方だったから」と言っていただいた。その言葉がうれしかった。この訪問の経過を短いエッセイにし、デカルコマニーなどを封じ込めた小さな箱の作品にまとめて『幻の橄欖を求めて』と題名をつけた。こうして私の落合散歩は開始されたのだった。

 次の落合散歩であるが、自分なりの感覚に従って言えば、意外に早くその機会はやってきた印象であった。2006年1月末から森美術館で「東京―ベルリン/ベルリン―東京展」が開催されたが、そこにはベルリンに留学していた経緯から村山知義の作品や資料が展示された。会場には資料として村山が中心となって発行した雑誌『MAVO』も展示されていた。その奥付をみて驚いた。なんと「上落合186番地」と印刷されているではないか。しかも今回は同じ町内となる「上落合」が町名なのだ。新宿中央図書館に古い地図を見にゆき、番地を探した。見つけた場所は自宅から歩いて10分ほどの場所であった。さっそく地図を片手に歩いてみた。近くだけれどメインの通り道からは外れているために、今までに歩いたことがない通りだった。しかもその通りはなんとなく戦前の雰囲気を残した場所を通っていた。あとで知るのだが、そこは村山も参加した「全日本無産者藝術聯盟」通称NAPF(ナップ)の本部があった場所であったのだった。狭い路地をたどると早稲田通りに出る手前に村山知義の「三角のアトリエの家」の跡地はあった。目の前には公園があるがそれは移転前の月岡八幡宮の跡地であった。瀧口修造と村山知義という二人のスター(自分なりの)が時代は違うとはいえともに落合に住んでいたことに正直驚き、さらに親しく感じた。そして落合という土地の歴史や住んだ人物たちをたどってみたいと実感したのはこの瞬間であった。
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