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平林たい子と柳瀬正夢、落合での二人(6) [柳瀬正夢]

 目黒のビルに帰った平林は高見沢の帰りをまった。そして手切金、罰金のことを話した。柳瀬にとりなしてほしいと高見沢は言うが平林は勘弁しない。結局、高見沢の結論は「金をはらうかわり、君の生活を安定させる善良な男性を紹介してあげるよ。」だった。そして高見沢が紹介したのが岡田龍夫であったのだ。高見沢は「君、岡田はアナなんだぜ。僕みたいなボルと違って、その点でも君と合うと思うよ」と告げる。高見沢に連れられて平林は目白駅に降り立つ。そこから歩いて岡田の落合の家に一緒に行こうというのだった。

 そのころの落合は、みまわす限りの野菜畑で。三井家の墓所のある高台が林のように見えた。西武電車武蔵野電車もまだ通っておらず、西武電車の予定地が買収されて、赤いペンキ塗の杭の標識が野菜畑の間に立っていた。  すがすがしい郊外のながめを楽しんで三十分も歩いたころ、大小の石碑が背をならべた墓が見えて、その前に物置小屋のような小屋がぽつんと一軒建っていた。見晴しはひろびろとして、ところどころに竹藪でかこまれた農家が見えるばかりである。

岡田が住む落合の家は『ガ・ギムガム・プルル・ギムゲム』仲間のカンディンスキイと皆が呼んでいる詩人の一人が建てたけれど、冬が寒いのですまなかったという家だという。あたり一面は大根畑であったという。落合大根はこの時代に有名であった。記述から想像すると西落合の自性院の近くあたりだろうか。平林は善良であった岡田には魅力を感じなかった。そして、ついには岡田の家から逃げだす。その後の平林たい子であるが、岡田龍夫や壷井繁治のようなアナキスト詩人とともにいった千葉の海岸で岡田と別れている。この後、林芙美子と同居したこともある平林は仕事も住居も転々とする。しかし作家として覚醒してゆくことになる。その舞台は柳瀬が同人であった雑誌『文藝戦線』であったのだ。私が偶然手に入れた『アサヒグラフ』1932(昭和7)年1月6日号には漫画家・柳瀬正夢の家族写真が掲載されていた。笑顔で馬になった父・正夢の上に二人の娘が乗っており、正夢は満面の笑顔。そのわきに幸せそうな妻の梅子の姿がある。この写真を見るとこの数か月のちに治安維持法違反によって検挙され、過酷な拷問を受けることになろうとは想像のしようもない。ある種の恐怖も感じさせる写真であった。

 柳瀬は若い時期に穴明共三と名乗ったようにアナキズムとコミュニズムの整理もついていなかった。だが、次第に概念整理もされ思想的な対立も論争もあった。平林は長くアナキストであった。ある時期から明確にコミュニストとなった柳瀬とは思想的には袂を分かつことになる。しかし面白いことに二人はともに落合地域に深く関係を持つことになった。平林は1926(大正15)年に西落合に暮らした。1933(昭和8)年、柳瀬の妻の梅子の病状は悪化した。柳瀬は留置されたままだったので家族は上落合の板垣鷹穂の家のほぼ隣にあたる家に越す。小林勇が世話をしたようである。入院先で梅子は死去する。柳瀬は自らは望まずに落合に戻ったことになる。まだ幼い子供たちを抱えて、妻の死はこたえただろうなと思う。柳瀬が次に居を構えたアトリエは西落合であった。画家、松下春雄が白血病で急逝したアトリエを借りたのであった。不思議な縁が二人と落合にはあったのかもしれない。
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柳瀬正夢全集刊行会

はじめまして。スタッフの黒木と申します。
facebookで、北九州の柳瀬展オープニングに行かれたのですね。
いつも興味深い貴サイトで勉強させていただいております。
私どものサイトにリンクを貼らせていただけないでしょうか?
by 柳瀬正夢全集刊行会 (2013-12-18 16:39) 

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